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■ 19日のコメント欄
に書くことが長くなったのでこちらへ。まとまらない。
19日のJNS Fig.1,2を眺めているとこんなことを考える: それでも、encoderはdecodeされることを前提として作られなければならないはずで、encodeされる刺激とdecodeされたestimateを突き合わせて誤差を修正していく過程というのはdecoderだけではなくencoderにも必要なのではないだろうか。発達時に形成されながら、完成後も常に修正を受けながら存在しつづけるencoderとdecoder。
Decoderがencoderと別のレベルにあるようにわれわれには見えるのはわれわれが実験者として外からdecodeしようとしているからだけで、たぶん記述のレベルが違うのだ。Encodeするのは生物自身であって、decodeするのは実験者。Encodeの研究は、知覚刺激を生物自身がencodeしたスパイクというspecifyされた実体を実験者が記述するだけであるのに対して、decodeの研究では、生物がそれをどう利用(nearly equals decode)しているかではなくて、知覚世界像のような充分specifyされてないものを実験者がスパイクから作り上げようとする(= decode)のであって、それは記述ではない(>>このため、取捨選択が必要になる)。
動物や我々自身はspikeにecodeされた知覚情報を最終的な行動としてアウトプットするわけで、そのときには単なるdecodeをしているわけではないが、何らかの形でそのスパイクの情報を利用し、変換しているとは言える。この「内的な変換過程」みたいなものを見ようとするのが私が今まで書いてきた「内側からの視点」を計算論的に解釈したものといえるかもしれない。ああ、こんな曖昧なことしか言えない。