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■ 書籍「行為する意識: エナクティヴィズム入門」の「はじめに」の文章を公開しました

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書籍のカバー

書籍「行為する意識: エナクティヴィズム入門」はいよいよ1週間後の5/26(月)に発売です。ぜひ予約して買ってください。

書籍のサポートページで随時情報を追加しております。先週は本書の紹介動画(Youtube)を公開しました。

動画第2弾として、田口さんと吉田が本書について語る動画を録画しました。こちらについてはいま編集中ですので、公開まではもう少々お待ちください。

今回の更新情報です。書籍「行為する意識: エナクティヴィズム入門」の「はじめに」の文章をまるまる公開しました(書籍の9ページ分)。ぜひ読んでみてください。

文章はこちらから:


はじめに 神経科学と現象学をつなげるわけ

「意識」という問題

朝、鳥のさえずりとカーテンの間から差し込む光で目が覚める。長い一日が始まる。そして夜、疲れを感じながらベッドに入り、再び眠りに落ちる。──

この間、最初から最後まで、われわれは「意識」をもっている(途中で昼寝をしたり気絶したり全身麻酔をかけられたりすれば別だが)。歯を磨いているときも、食事をとっているときも、自転車に乗っているときも、意識は失われていない。様々な事物、出来事、行為、感情などは、われわれの意識のうちに現われては消えていく。われわれの生は、主観的には、そのような意識に現われる出来事の連続から成り立っているといってもよい。

われわれが「ふつうに」暮らしているとき、いつもその暮らし(生)がそのなかに現われてくるような、いわばわれわれの暮らしの「媒体」「媒質」のようなものとしていつもそこにあるのが、「意識」である。

それは、われわれにとってとても「近い」もの、あまりにも近く生きられたものであるがゆえに、注意を向けられることはあまりない。突然右側から飛び出してきた原付バイクや、鮮やかな木々の色合いや、家に忘れたかもしれない鍵などは、われわれの注意を引きつける。われわれの意識を強く惹きつけるのは、どちらかといえばそのような「対象」である。そのような対象の数々に魅入られているがゆえに、われわれは「意識そのもの」にはあまり気づかない。意識は、たいていの場合、意識を惹きつけるものごとの方に向かっているがゆえに、そこで働いている意識自身についてはなかなか気づかないのである。

それゆえ、いざ大上段に構えて「意識とは何か」などと尋ねられると、われわれはしばしば立ち往生してしまう。「意識とは何か」は、ある意味では、よくわかっている。意識とは、われわれがいつも慣れ親しんでいる「あれ」のことだ。だが、その「あれ」とは何だ、それを言葉で説明せよ、と言われると、われわれの頭はフリーズしてしまう。よくわかっているのだが、それを別の言葉で説明するのが、なんとも難しいのだ。

意識の科学的研究の登場と「意識のハードプロブレム」

このような難しい意識の問題にこれまで取り組んできたのは、もっぱら哲学者だった。しかし近年、この困難な問題に科学的なアプローチで取り組もうとする研究が次々と出てきている。ノーベル賞受賞者のフランシス・クリックがクリストフ・コッホと行った、意識の科学的研究プログラムの提案を嚆矢として、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)などの脳イメージング技術の発展にも支えられ、脳研究と深く結びついた仕方で意識の科学的研究が次第に盛り上がっていったのが、ここ30〜40年ほどの状況である。グローバル・ワークスペース理論(GWT)、統合情報理論(IIT)、高次理論(HOT)などの様々な理論・アプローチが現われ、国際意識学会(ASSC)などの国際的な意識専門学会などをプラットフォームとして盛んな議論が繰り広げられている。

他方、このような「客観的」な科学的アプローチでは、意識そのもの、意識の謎の本丸には届かないのではないか、という疑念も提示されている。哲学者のD・チャーマーズは、まさしく主観的に生きられた「意識そのもの」がどのようにして脳の活動から生まれているのかは、脳の活動そのものをいくら調べてもわからない、と指摘し、これを「意識のハードプロブレム」と呼んだ。「脳がこんなふうに活動しているときに、このような意識が生じた」というような「相関」は、様々な仕方で確かめることができる。しかし、そのような脳の活動から、いったい何がどうなって「意識」と呼ばれる「われわれがよく知っている〈あのあれ〉」につながっているのか、その具体的なメカニズムは、何をどう調べたらわかるのかもわからないほど、謎めいた難問、すなわち「ハードプロブレム」に留まるというのである。

意識という問題が難問であるのは、たとえば「ダーク・マター」が難しい問題であるのとは性質が異なる。「ダーク・マター」は、われわれが日常生活を送っているなかではまったく知りえなかった新しい問題である。本や授業やインターネットなどに触れて、物理学について知ったときに、はじめてこの概念が理解の難しい問題事象を表す概念として知られるようになる。つまり、物理学の助けを借りなければ、われわれはその存在に気づくことすらなかったわけである。

これに対し意識は、すでに述べたように、誰もがあたりまえのように知っているごく身近な現象である。それどころか、いつもあまりにも近くに、空気のようにわれわれの日常生活と共にあり続けている。したがって、意識の問題の難しさは、われわれが「まったく知らない」がゆえの難しさではなく、「こんなにもよく知っているのに、どうしてそのでき方、現われ方、メカニズムについて、これほどにも何も言えないのか」という意味での難しさなのである。

現代の科学的意識研究は、この難問に果敢に取り組み、ある程度の成果を挙げている。しかし、いずれの理論も、まだ決定打とは言えない。その意味では、意識の科学は、まだまだ生まれたばかりの、発展途上の学問である。

そして、この学問には、何らかの新たな「見方の転換」が必要だ、というのがある程度共通した見解であると言えるだろう。それを求めて、多くの研究者がしのぎを削っているのである。

「主観」と「客観」という枠組みの手前に遡る

このような状況において、最も解決を求められている核心の問題は何だろうか。それは、意識という「主観的に」生きられるものと、それを明らかにしようとする科学的な「客観的」手法との間を、どのようにつなげることができるか、ということだろう。手っ取り早く理解してもらうために、「主観的」と「客観的」という手垢の付いた言葉を使ったが、この概念の対は、一見わかりやすいが、かえってわれわれの足をすくうものにもなりうる。それは、われわれの思考を二つの固定的なカテゴリーの対立に縛り付けてしまうからである。「主観的」とはどういう意味なのかはわかる。「客観的」の意味もわかる。だが、それらがどうつながっているのかについては、簡単な答えが浮かばない。ここでさらに前に進むためには、「主観的」と「客観的」という見かけ上わかりやすい対立構造を超えて、そのさらに手前にある問題状況にまで遡らなければならない。

われわれが「主観的」と呼んでいる経験の相―気づいたり知覚したりするはたらきや感情など──も、「客観的」と呼んでいる事物や現象のあり方も、「様々なものが、われわれの経験のなかに現われる」という、われわれが日々経験している「ふつうの」出来事のなかに含まれている。いやむしろ、それらはこうした出来事のなかに分かちがたく融け込んでいる。たとえば、いま目の前に小さな鉢植えがある。鉢植えの木は、客観的に存在している、と言いたくなるだろう。他方、鉢植えの木が現に目の前にあることを経験しているのは、私の主観的な意識である。さて、いまあなたの目の前にある「客観的な」鉢植えの木から、あなたの「主観的な」意識を取り除いてみてほしい。できるだろうか? 頭の中では、できるように思えるかもしれない。だが、鉢植えの木から意識を取り除こうとすればするほど、あなたはますます鉢植えの木を「意識」してしまうのではないか?逆に、意識される「もの」が何もない意識というのは、想像するのも難しい。

ここから考えると、われわれが生きている「ふつうの」生活のなかでは、「主観的」なものと「客観的」なものをつなぐのが難しいどころか、それらは最初から深く結びついてしまっていて、むしろ切り離す方が難しいのである。具体的には、切り離すことさえ難しい現象の側面を、わかりやすさのために抽象的に切り分けたのが、「主観的」「客観的」といった概念なのである。

本書でわれわれがやろうとしているのは、このような、人々がいつも自然に生き抜いている経験と生に立ち戻って、それをできるかぎり素直に、かつ科学的に、語り直す方法を模索することである。われわれもまだ、完成された理論に到達したとはとてもいえない。だが、一歩一歩考え直すことによって、新しい考え方の手がかりには辿り着けたように感じている。その道のりを、これから読者諸氏と共有していきたいと思っている。

本書がとった手法

どうやってそのような試みに手を付けるのか。われわれがとったのは、神経科学を研究する吉田と、哲学、特に現象学を研究する田口が、それぞれの知見を持ち寄って、お互いの「ものの見方」の内部にまで深く入り込み、そこで哲学と科学が手法として分かれる手前にあるような「ものごとへのアプローチの仕方」を、手応えとしてつかむということだった。お互いの考え方に馴染んでいくなかで、徐々に「われわれの意識論」が形を取り始めた。それをともかくも一つの形に、一つの表現にまで落とし込もうというのが本書である。執筆の過程で、はじめの考えのごつごつしたところ、ちぐはぐなところが次第に解消されて、より整ったかたちにすることができたが、それでもまだ、この本での考えは形成途上の思考であり、プロセスの途中段階にあるといわねばならない。

意識を考えるには、単純に客観的な科学的手法を対象に当てはめるような仕方ではアプローチできない。その主題そのものが、客観的に現われてくる現象ではなく、むしろわれわれが日頃慣れ親しんだ身近な現象であり、知っているのに説明できない「あのあれ」だからである。したがって、ここでは「ものの考え方」、意識を考える際のアプローチの仕方そのものをよく考える必要がある。

本書では、これまで展開されてきた科学的意識論の手法を紹介し、その問題点を吟味した上で、「予測」という、近年の主観性に関連した科学(神経科学、心理学、認知科学など)の共通言語とも言える考え方を取り上げる。そして、神経科学と哲学を結びつけようとした先駆者であるマトゥラーナとヴァレラの「オートポイエーシス」の理論、ヴァレラの「エナクティヴィズム」を参照しながら、「予測とはそもそも何か」ということ自体を掘り下げ、「予測」の概念そのものをわれわれなりに新たな仕方で読み換えていく。その試みは、ゆらぎつつループを描く運動を遂行しながら、「差異を喰って」生きている生命のあり方に根ざした「予測」の考え方に帰着していく。それにより、閉じた内部から外部世界を「推論」してその「表象」や「モデル」を内部に作り、それが外部世界をどのくらい反映しているかの答え合わせをする、といった予測の考え方を乗り越えようとしている。

生命はそもそも自分の境界を見ることができない。それを見ることができるのは、それを客観的に見ている観察者のみである。そのような生きているもの自身の立場に立って現実を見ていくとき、生命はつねに「自分からは見えない境界」を「行為」によって乗り越えているという見方が出てくる。それをわれわれは「行為的媒介」と呼ぶが、これは現象学的なものの見方をわれわれなりに換骨奪胎した見方である。そして、われわれなりに捉え直された「予測」を、このような「行為的媒介」として捉え返していく。それは、現象学的なものの見方と、「予測」という科学的見方とを一つにしようとする試みとも言えるが、異質なものを無理矢理接合したのではなく、むしろ「主観と客観を抽象的に分断する前にわれわれが行っていた現実の見方に立ち帰る」ということからの自然な帰結である。われわれが「ふつうに」経験している現実から出発したとき、それら二つの見方は自然に一つのものとして見えてきたというのが実情なのである。

ここには、「科学」というものをどう考えるか、そもそも「説明」ということをどう考えるか、といった大きな問題へのわれわれなりの問題提起も含まれているが、そこは十分に展開できていない。それについては、今後、このような共同研究の実践を継続しながら、さらに考え続けていくことになるだろう。

まずは、われわれなりの「神経現象学」の試みを、お好きなところからご覧頂ければ幸いである。できるだけ楽しんで読めるように工夫したつもりだが、難解に感じるところは、いったん飛ばして頂いても構わない。後でまた戻ってみると、全然違った見え方がすることもあるはずだ。本書の議論のあちこちは、互いに参照しあって、互いにループを成していたりするので、そういう「隠れたつながり」(相互参照的ループの絡まり合い)を見つけていくような読み方も面白いかもしれない。

本書の表題について

最後に、表題について一言述べておきたい。本書は、「意識」というものを、何か固定的に成り立っている「状態」とは見なさない。意識とはむしろ、つねにみずからを乗り越える動きにおいて成り立っているものであり、われわれの言葉で言えば、「行為的媒介」を実現することで、見えない境界の外へと跳躍しながらみずからをまとめあげている。それは、つねに次に来る現実を予測しながら行為する、あるいはむしろ、行為することで予測し、そこに現われた「差異」を喰うように行為し続けるといったあり方を意味している。意識というものが、「頭蓋骨の中に閉じ込められた何か」ではない、ということを端的に示す表題として、『行為する意識』という表題を選んだ。

いま述べた課題を「予測」の根本的な捉え直しとして展開するとき、それはわれわれにとっては、「エナクティヴィズム」とか「エナクティヴ・アプローチ」と呼ばれるF・J・ヴァレラたちに始まる認知科学上の転換を、新たな仕方で捉え直していく試みともなった。エナクティヴィズムは、それが何を意味しているのか、科学的にいってそこにどのような含意があるのか、といった点がつかみづらいとしばしば言われる。そのようなエナクティヴィズムを、われわれなりの仕方で、現象学的なものの見方や、予測的処理といった科学的な考え方のなかに位置づけ、そこから逆に、これらの考え方を内部からもう一度統一的に捉え返すような試みとして描きなおしてみたつもりである。そのため、副題を「エナクティヴィズム入門」とした。

ただ、エナクティヴィズムの整理された見通しやすい見取り図というよりは、われわれなりの仕方で、エナクティヴな思考法と格闘しながら、それをもう一度具体的に考え直そうとした苦闘の軌跡といった趣もあり、わかりやすい入門書を期待する向きには期待を裏切ってしまうかもしれない。だが、エナクティヴィズムの考え方に入っていくために、「安易な」道はないとわれわれは考えている。少なくともわれわれにとっては、エナクティヴィズムの中心部へと一つ一つ道を付けていくには、このくらいの苦闘が必要だった。読者諸氏には、ぜひご一緒に、頭を柔らかくして、この「エナクティヴィズム道場」で「乱取り」に参加しながら、転がり回って考えていただくことを期待している。


以上です。


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