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■ おすすめ本:「『意識』を語る」

さあさて、生理研国際研究集会「認知神経科学の先端 意識の脳内メカニズム」NIPS-SSCが近づいてきたので今年も「予習シリーズ」(この言い方は四谷大塚なのだそうです)を始めようかと言いたいところなのですが、その余裕がないんで、参考図書を紹介:

「意識」を語る スーザン・ブラックモア (著)

「ミームマシンとしての私」で有名なスーザン・ブラックモアがツーソン会議やASSCに参加するような科学者や哲学者にインタビューをしたものです。各章が短いのでどこからでも気軽に読めるのでおすすめです。この問題でみんなもういろんなこと言ってるってのがわかります。今回の生理研国際研究集会「認知神経科学の先端 意識の脳内メカニズム」NIPS-SSCではこの中でインタビューされている3人がトークしに来ます。ここがポイント。まずNed Block。それからChristof Koch。それからPetra Stoerig (原書には入っているが、訳書ではページ数の都合上、webからのダウンロードのみとなっている)。この本を読んでも今回のトークでしゃべることがわかるかっていうとわからないと思うけど、もっと雑談レベルでそのような考えの根っこがどんなものなのかってのを読んでおくときっと岡崎でのワークショップも楽しめるはずです。

というわけで訳書の中からおもしろかった部分をピックアップしてみます。(原書を元に多少訳をいじっているところあり。) まずNed Block。

わたしが心の哲学について講義をするとき、いつもは「逆転スペクトル」の話をします。「あなたには緑に見えるものが私には赤に見えて、その逆も成り立って」という形で話をする人もいますが、
(中略)
で、これについて入門編のコースで説明すると、普通は三分の二くらいの生徒が「ああなるほど、言っていることはわかりますよ」と言うし、中には「ああ、そういえば、子どものときからずっと不思議に思っていたんですよ」とさえ言う生徒もいます
(中略)
でも、三分の一くらいの人々は「いったい何の話やらさっぱりわかりません」と言うんです。そしてこの三分の一というのは、デネットやオリーガンみたいに、何らかの形で機能主義者か行動主義者なんだと思うんです。つまり、こういう人たちはどういうわけか、現象性や、それがもたらす難しい問題を理解できないのです。

ここでの、ある人にとって問題となり、ある人にとっては問題でない、というかんじが面白いですよね。こういうanecdoteをもとに議論しちゃいけないんだろうけど、けっこうここが本質なような気もしてる。つまり、「どの段階で納得がいくかの問題なんじゃん?」っていう。

しばしば誤解される気がするのだけれど、「機能では説明できないような意識があるかもしれない」ということ自体をだれかがなんか積極的に証明したいと思っていると考える必要はないように思うのです。少なくとも意識の「科学的解明」においては。ある種のオカルト的考えと結びつきやすいので、科学者はそういう気配に対して反発するんだと思うのですけどね。わたしは「意識の機能的側面を説明したら現象的側面を説明したことになる、というのは自明ではないでしょ?」って言い方の方が科学者には伝わるんではないかと思う。

このあいだのASSCで金井さんと高橋さんと会ったときにこんな主張をしたんですけど、ASSCとかでいろんな人が議論してるときのモティベーションはなにかというと、科学的に話を詰めていけば意見の相違はそんなにはあり得ないんで、けっきょくそれぞれが譲れない点というのがあって、それが各論者の個性を作ってるんじゃないか、なんて思うんです。その意味ではネッドとかは「機能的に説明できれば十分である」という必ずしも自明ではない立場を取る人に対してものをしゃべっているように思うんです。(クリックの"astounishing hypothesis"での「およそすべて人間が体験することはニューロンに表現されている」というのは、べつにこれとは抵触しない。)

つぎはChristof Koch。

(注:脳が免疫系などには「意識的アクセス」を持っていないことについての説明を求められて、)
クリストフ 脳内や体内にはそれを神経的に表現するものがなく、明白なやり方でこの情報を表現している「脳の計画段階」にアクセス可能にできないということ。
ブラックモア ではここで重要なのは「脳の計画段階」なのですね。
クリストフ そう。フランシスとわたしはそれこそが意識の機能だと考えてる。つまり、意識の機能とは「現在自分の周りで関連していることすべての要約を作成すること、そしてこれから自分がなにをするかについての意思決定を行うために、その要約を「計画段階」に送ること」だ。
(中略)
ブラックモア ではあなたの見解では、意識そのものに機能があると?
クリストフ あるいは意識の神経相関に機能があると言ってもいい。ネッド・ブロックの言うP意識とA意識の区別は信じないよ。
ブラックモア 両者は同じものだってこと?
クリストフ ネッド・ブロックはこれらを区別するはっきりした実証方法や操作手段を一度も示していないんだ。概念が異なる可能性はあるが、操作的にこの二つを区別できない限り、気にかけるつもりはない。

「脳の計画段階」ってわかりにくい言葉ですけど、原文でも"planning stages"です。以前このブログでperceptual decisionとの関連について言及したことがありますけど、decisionをするステージそのものというよりはその手前なんですよ。ただし、なんらか抽象化したサマリーであって、感覚データをのものと言及してないところからして、perceptual decisionよりはもっとprefrontalとかを使うような認知的過程のことをイメージしていると言えます。

さっきのネッドの話につなげると、科学者もまっとうだったら「機能的に説明できるところから明らかにしていこう」というあたりに意見が落ちつくと思います(*注)。かならずしも消去主義的な立場を取る必要はないわけで、その意味ではクリストフの言っていることは踏み外してはいないと思います(上で言ってることは、ネッドの分類が操作的にこの二つを区別できるなら、気にかけることにしよう、ということなわけで)。ちなみにさっきの私の主張でいけば、クリストフとか、その他多くの科学者は「科学的な手続きを取らずに確定的にものを言う」ということに激しく反発するのであって、それ以外のところに積極的な立場を取る必要をとくに感じないんじゃないかと思う。その上で科学的な作業仮説を立てる。たとえば、「シングルニューロンレベルからネットワークレベルまでの可能性を踏まえた上でのNCCの存在」とか「脳と環境との相互作用」とか。だから、わたしとかAlva Noeとかは「脳は受動的な計算機で、環境との相互作用を考えなくても意識を含めた認知活動が説明できる」みたいな前提に基づいた考えには反発する。でもこれは科学的アプローチの中での作業仮説のレベルの違いでしかない。

*注: いや、もっとずっと多くのpopulationで「意識のような定義自体が不確かなものを対象とするのは筋が良くない」って考えてる、というのが正しいですね。でも、以前のサールのまとめにあったように、意識のanalytical definitionとcommon-sense definitionはべつに分けるべきだし、科学を始めるには後者があれば充分で、さいごに前者が出来ればよい、というので充分だと思う。

NCC論について言えば、「シングルニューロンレベルであれネットワークレベルであれ、意識の機能的側面を解読・制御できるような脳のサブセットを見つけるところからはじめるのが一番早道でしょう」って言ってるだけなんで、そういうものがあろうがなかろうが、それが科学的に検証できれば問題ない。このくらい一般化してしまえば、わたしもとくに反論はない。たぶんクリストフを含む意識の科学的アプローチの推進者は「意識の問題は難しいから科学的にアプローチするのは無駄だ」みたいな意見にしか反発しないと思う。「ハードプロブレムとイージープロブレムを分けるべきだ」という主張と、「イージープロブレムを解くことはハイドプロブレムを解くことにはまったく役に立たない」という主張は別。

せっかく二人来てくれたのでネッド vs. クリストフという構図を煽ってみたいとは思うのだけれど、実際にはネッドの論敵はチャーチランドみたいな消去主義者で、クリストフの論敵は哲学的にはいないし、無理矢理入れればコリン・マッギンみたいな懐疑主義者ですかね。クリストフの論敵はNCCの作業仮説に基づいた上でのエビデンスの解釈の相違に基づいたものとなるでしょう。つーかそれが科学だ。デネットは創発の概念を持っているし、けっして消去主義者ではないですよね。デネットは神秘的な要素を入れることに反感があるだけで、そういう部分は創発なり進化なりで説明できるとする部分こそが核なのではないかと思う。あと、意識とはある種のillusionに過ぎない、って議論のバリアントがいくつかあるけど、わたし自身はそういう議論の意義がわからない。Illusionかどうかってのは存在論的問題に過ぎなくて、現象的意識を体験しているというのは認識論的問題なんでべつもんだ、ってのがじっちゃんからの教え(つーかわたしがサールから学んだこと)ですけど。

ってわたしの意見はべつにいいや。いろいろとボロが出るしw ここでクリストフのところからもう一つ引用。

クリストフ もしこれらの小動物がたんなるオートマタではなくて、じつは感覚を持ち、感じることができるとしたら、何の権利があって彼らを殺せるかね?
ブラックモア 肉は食べますか?
クリストフ (ため息) うん。
ブラックモア 難しい問題ですよね?
クリストフ そうです。あまり食べないようにしているけれど、とにかくうまいからなあ。

最後の文がなんか素朴でワラた。原文では"Yes. I try to eat less meat but it just tastes so good."と言ってる。スチャダラパーの"5th Wheel 2 The Coach"でのフレーズを思い出したり。

あとPetra Stoerig。これは盲視の患者さんが能力を獲得するのにはトレーニングが必要だって言っているところ。わたしのJNS論文と関連してます。

学習が早い人もいれば、この能力(盲視)を身につけるのに時間を要する人もいる。ほとんど最初からうまくできる人もいるのです。
(中略)
もっとも長くかかった例では、(弁別テストの成績が)偶然のレベルを超えるのに2年ほどかかり、そこからは普通に伸びていきました。いったん伸びると、続けているうちに、(非常に長い間彼らとつきあっているのですが、)なにかがそこにある感じがすると言い出すことがあります。この感覚が必ずしも正しいわけではありません。間違っているかもしれないし、最初はあまり当てにならない。それでも、だんだん成績がよくなっていくのです。

Type 2 blindsightでの「何かがあるかんじ」というのにも言及してる。でもこのあいだ彼女に会って話をしたときには、type 2という言い方は私は好きでない、って言ってました。

というわけなのですが、残念ながらペトラは参加できなくなっちゃいました。このエントリを書きはじめたのは7月だったのですが、訳文丸写しはまずいので引用になるように間とか埋めるのが遅れてたら予定が変わっちゃった。

ともあれ、岡崎でお会いしましょう! ではまた!


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