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2024年05月05日

私とブッディズム

さいきん初期仏教に関する本を立て続けに読んだので、ひさびさに仏教マイブームが来ている。

自分は仏教については学問的興味から独学でいろいろ読んできたのだけど、これまでこのブログでは話題に取り上げてこなかった。まあ宗教に言及するのはいろいろややこしいので避けていたということもある。

でもげんざいわたしが「意識の科学的研究」を標榜するにあたって、仏教から自分が学び、影響を受けたことは大きいので、それについてはどこかで言語化しておきたいと思ってた。

今回の記事では、ざっくりとこれまでの自分の勉強歴をまとめておこう。(将来的にはさらに自分が学んだことについて深堀りして整理する記事を書こうと思う。)


[開示事項] 自分は仏教徒ではないし、その他の新宗教にも関わってない。家の葬式は禅宗系だったが、父の葬式も「出張お坊さん」的なものだった。そういうわけで、宗教として仏教に関わった経験はない。


[80年代] はじめに仏教思想に興味を持ったのは、中高生の頃、ビートルズのインド行きを知ったときだろうか。「チベットのモーツァルト」(中沢 新一)が出版されて、チベットの密教というものを知って、カルチャーとして曼荼羅とかに興味持ったり。(まさに高円寺ロック系サブカル) でもそれはただの意匠への興味にすぎなかった。


[90年代] 日本仏教にはさっぱり興味を持てなかったが、禅における公案に興味を持って「無門関」とかを読んでる時期があった。ちょうどベイトソンの「精神と自然」を読んだ時期だったので、「メタなメッセージ」という現代思想っぽいキーワードからの興味だったと思う。

瞑想に興味があったので、ダライ・ラマの本(「仏教入門」(1995)と「瞑想と悟り」(1997))を買った。そこでチベット仏教(ゲルク派)ではツォンカパが中観派として、ナーガルジュナの「中論」を根拠としていることを知って、自分が学ぶべきは「中論」だとあたりをつけた。

「中論: 縁起・空・中の思想(上・中・下) (レグルス文庫)」三枝充悳 がいまでも本棚にある。八重洲ブックセンターで第4刷1999年のものを買ってる。そのあたりが自分にとっての第1次仏教マイブームだった。立川武蔵や三枝充悳が「空」について書いた新書とかを読んでた。

それと同時並行的にマトゥラーナ・ヴァレラの「オートポイエーシス」(1991)および河本英夫の「オートポイエーシス—第三世代システム」(1995)を読んで、「そのつど生まれては消えている命と心」という空、縁起思想との繋がりを自分なりに発見していた。

ヴァレラの「身体化された心」は当時まだ訳書が出ていなかったが、青土社 現代思想の1997年6月号「多様性の生物学」において、「身体化された心」の8章が「行為の中で生み出すということ」というタイトルで訳出されているのを読んでいた。


この時期にもうひとつ大きな影響を受けたのは、「宗教なんかこわくない! マドラ出版」(橋本治)(1995)を読んだことだった。この本はオウム事件への応答として書かれたものであって、ほとんどの記述はオウムについてなのだけど、最終章「なんであれ、人は不合理を信じたりはしない」で橋本治流の仏教観が披露されている。

まず前提として「宗教とは、この現代に生き残っている過去である」(p.9)と書く。ただしそれは「古臭いから意味がない」という意味ではない。「過去の集積=歴史を頭に入れなければならない。それだからこそ、宗教を論ずるのはむずかしい。」(p.10)と書く。

古代インドの輪廻転生思想が共有されているバラモン教が支配的な時代にブッダが(ジャイナ教的な苦行を否定して)クシャトリアなのに解脱を宣言したのが仏教の始まりである。仏教は「偉大なるものを信仰する教え」ではなくて「自らが自らを獲得してゆくための思想」(p.248)であること、「大乗仏教の「仏」とは「人格化された思想である」(p.259)、そして「まだ自分の頭でものを考えることができない人間が「思想」を人格化する。宗教というものは、思想を思想として抽出することが出来ない人間がした、「思想の人格化」から始まる」(p.273)「宗教は解体された。だからこそ人間は、今や信仰抜きでも「美しいもの」を作り出せる」(p.275)などの記載がある。(これが「宗教とは現代に生き残っている過去である」の意味。「子どもの時の記憶」という表現もある)

この本では「自分の頭でものを考えることの重要さ」という橋本治の毎度のモチーフを仏教の話でも展開しているということなので、それなりに批判的に読む必要はある。しかし、あの時期にすでに「仏教を当時のバラモン教、(+ジャイナ教)からの対抗思想として捉える」「思想が宗教になったものとしての大乗仏教」という現在でも重要なトピックが提示されている点で価値があると思う。けっして学術的な本ではないのだけど。

この本はいまでも私にとって重要なリファレンスであり、ある意味、ここで書かれていることをもっと学問的なアプローチの本で確認してきた、というのが今までの私の仏教思想への理解が辿った道の要約と言える。

わたしにとってはこの本が決定的な契機となって、中国、日本で展開された宗教としての仏教よりも、中観派とそれ以前の仏教思想について学んでいく方針を取るようになった。

あと一点、この本での輪廻転生の扱いについて。この本では最後に輪廻転生の話題に戻ってくる。「もしかして現代で宗教が成り立ちうるとしたら、「人生は一度でいい」の解脱志向ではなく、「人生は何度でもある」の輪廻転生志向のほうかもしれないのである」(p.285) 「インドから東は「人間は輪廻転生をする」という思想のある文化圏で、インドから西は「人間は輪廻転生をしない」の文化圏」(p.287)、(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は死んだあとに最後の審判があるので)「魂の不滅が、かなり不思議な形で定着している」(p.291) 、「人間の魂の不滅を信じしている」という思想に関しては、東西共通なのである」(p.288)とまとめる。

それならばブッダの「輪廻からの解脱」が特異なものとなりそうだが、この本ではそういう話にはならない。代わりにドーキンスのミーム論に持っていく。そして最後は「死んだらカナブンになりたい」っていうのがオチになっている。「人間は輪廻転生をする」という思想のある文化圏にあることを踏まえて、しかしブッダ的に「人間として解脱する」ことに価値を置かないことを明示している。けっこうややこしく、ニュアンスのある書き方をしているが、この結論のためにこそ、それまでのざっくりとしたまとめがあると捉えるのがよいと私は思う。


[00年代前半] ヴァレラの「身体化された心」の日本語訳が出たのが2001年8月で、わたしは初版を買ってる。

この本はこれまでの心についての認知科学的アプローチを批判したうえでエナクティブ・アプローチを提唱したエポックメイキングな本として有名なのだけど、実は仏教思想についての記述もだいぶ多い。この本を精読することで、仏教思想での基礎概念(十二縁起、縁起、中道)などについてひととおりのイメージを持つことができるようになった。


でもこの時点での私の理解はあくまでもナーガルジュナの「中論」の立場からのものだった。つまり、部派仏教、大乗仏教、密教という流れがあるところで、部派仏教(の説一切有部)の倶舎論が自性論であると断じたうえで、大乗仏教である中観派では無自性であること、つまり空であることを強調し、ブッダの精神に回帰したという優位性を主張するものと私は理解した。(ざっくりとした表現だが。)

宮崎哲弥が書いていることが自分の立ち位置に近かったので、ナーガルジュナの「中論」の基礎において仏教哲学を深めていくとための道標として用いていた。


[00年代後半-10年代前半] 瞑想の実践について。当時日本国内で利用可能な瞑想についての文献はだいたいチベット仏教で使われていたものについての本だった。(上述の「瞑想と悟り」とか。) このため、自分で実践するというよりは、チベット仏教ではどのように実践されているかを学ぶ目的で読んでた。

でも2000年代のこのくらいの時期になると、スリランカ・東南アジアの上座仏教(テーラヴァーダ仏教)でのヴィパッサナー瞑想の実践が日本語で紹介されるようになってきた。(まだ、グーグルのマインドフルネス本(2012)が出版される前の時期。)

わたしも「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法 (春秋社 1999)」を買って、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違いを知った。多少自分なりに試してみたこともあるが、続かなかった。自己流でやってもしょうがないので、京都の瞑想センターとか行ってみたいなと考えたまま、実践できてない。

しかもこの時点では、思想的にはまだ中観派からの視点で考えていたので、上座仏教は自性論を保持して原始仏教から遊離しているという考えを保持したままだった。このため、上座仏教が仏教の実践として瞑想についてシステマティックな方法論を継承できていることと、その教えとの関係を私は解決できない状態で、仏教についてはしばらく興味を失っていた。


[10年代後半] しばらく仏教思想の理解については進捗がなかったのだが、ふたたび私に仏教マイブームが到来したのは「ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―(新潮選書)」佐々木閑, 宮崎哲弥 (2017) に出会ったことだった。

上記の通り、宮崎哲弥の書いたものについては追いかけていたのだが、この本ではラディカルブッディストを自称していた宮崎哲弥が、初期仏教について佐々木閑との対談形式で仏・法・僧について整理している。

この本によって文献学的な意味での初期仏教と上座仏教と大乗仏教の関係を理解できた。以前は素朴すぎると思って興味が持てなかった初期仏教の文献(スッタニパータ、ダンマパダ)を読み始めた。(飛ばし読みで半分ずつくらいだけど。)


さらに魚川祐司の以下の2冊が大きな衝撃を受けた。

魚川祐司はミャンマーでテーラワーダ仏教の実践を行ったうえ(ウ・ジョーティカ『自由への旅』の翻訳者でもある)でこの本を書いているということが自分にとっては重要だった。前述の通り、わたしの仏教理解は中観派視点から始まっていたので、テーラワーダ仏教での実践とその教義の関係が自分には整理できていなかった。しかしこの本によって、いまも輪廻転生思想を保持し、サンガが成り立っているテーラワーダ仏教にとっての仏教を学ぶことの意義を理解した。

こうなると読める本が増えてくる。アルボムッレ・スマナサーラが経典の解説書を膨大な数出版しているのだけど、それをポチポチ読み始めた。スマナサーラの本で知った重要な知見はたとえば、「苦dukkha」とはいわゆる苦しみのことだけではなく、不満足なことを意味することだ。よって、「人生とは苦dukkhaだ」という言葉は、生活が苦しかったであろう古代インドでのみ当てはまるものではなく、現代の日本においても、あらゆる欲望が不満足で終わるという意味で成り立つ。(だから「仏教はペシミストの発想」というありがちな批判は正しくない。)

こうしてパーリ語の理解の重要性を理解したので、勢い余って、パーリ語と英語の対訳でスッタニパータを読み始めたが、今は止まってる。さすがにやりすぎだ。


[20年代前半] 北大人間知・脳・AI教育センター(CHAIN)に移ってからは、大学院講義「意識の科学入門」を開講するとともに、エナクティブな視点で脳と心を理解してゆくプロジェクトを本格的に進めてゆこうと考えた。また、科研費基盤Aの「意識変容の現象学」で西郷甲矢人さんと親交してゆく過程で、彼が私よりもずっと仏教に詳しいことを知った。(なんなら仏教のほうが先で圏論はそこからの演繹なんではないかってくらい。)

そういうわけで、せっかくCHAINに在籍しているので、仏教思想についてもサイドワークとしてではなく、もっと正面から研究対象として捉えてもいいのではないかと考えてる。


さいきんになって、以下の2冊の本を読んだ。

どちらも初期仏教を扱っていて、上記の佐々木閑・宮崎哲弥や魚川祐司の本で学んだことを、さらに解像度上げてゆくのに有効だった。たとえば、初期経典(ニカーヤ)において、韻文(たとえばスッタニパータ、ダンマパダ)のほうが古いからよりブッダの考えを直接反映しているという考えは必ずしも正しくない。スッタニパータ、ダンマパダなどは当時のジャイナ教の苦行文学と同じものを共有している可能性もある、など。

でもそれだけではなく、この2冊を読んでいて私に浮かび上がってきたのが、「輪廻転生思想を共有していない現代の日本人にとってブッダの思想はどういう意味を持つのか」という問いだ。

そしてこれはまさに、ずっと昔に読んだ「宗教なんかこわくない! マドラ出版」(橋本治)(1995)が提出していた問題だった。というわけで、「宗教なんかこわくない!」を読み直して、とりいそぎ今回の記事にまとめてみたというわけ。


ということで現在までの状況、動機を言語化することが出来た。ここから魚川祐司の本にあった論点、たとえば、輪廻とはなにか(いまある自我がそのまま転生するという意味ではない)、悟るとはどういうことか、なぜブッダの時代にはたくさん「悟る」人がいたのにいまはいないのか(「悟り」のインフレ問題)、そういうことについて上述の本(佐々木閑・宮崎哲弥、魚川祐司、清水俊史、馬場紀寿の4冊)で書いてあることを比較しながらまとめておきたい。

とはいえこのために初期経典(ニカーヤ)とかにあたって、とか言っていると一生無理なので、もっとざっくり、たんに本の抜き書きによるまとめを作るくらいから始めようと思う。来世で。(<-ここで使うのにふさわしくないフレーズwww)


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