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■ 「視野の外は端的に無であって、暗闇じゃあない」(+おまけ)

視野の外は端的に無であって、暗闇じゃあない、ってのをいつも説明するのだけど、目を動かすことができて、頭を動かすことができるので(+音とか)、その外部の存在を実感できる。

もし目を動かすことができず、頭を動かすことができなかったとき、その外部の存在を実感することができるだろうか? デネットが言うように、端的にその無は気づかれず、なかったことになるのではないだろうか?

マッギンやネーゲルが言うcognitive closureってのはそういうものであって、我々の気づかない空間、時間、そしてそれを超えたところに我々と相互作用しないがために端的に無となっているものはいくらでもあるのではないだろうか? そしていったんそれと相互作用が可能になったとき、それはまるで初めから存在していたかのように受け止められるのではないだろうか?

…みたいなことを小学校高学年ぐらいになったらみんな考えるもんですよね? (<-遠い目をしながら)


アクティブヴィジョンの話題の掴みとして「われわれの視野で本当に視力の高いところは視角にして1度ぐらいしかない」(だから絶えず眼を動かして網膜の空間解像度の高い部分で物を見ているのだ)という話がある。これをRucciかだれかが「腕を伸ばした先の親指の大きさの視角」と表現していた。

実際に計算してみた。私の腕の長さは70cm。親指の爪の長さ(縦方向)は1.3cm。よって視野角は atan2d(1.3,70)=1.0639 (degree) となる。なるほど納得。


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