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■ 盲視の感覚は視覚ではない。強いて言えば「盲視感覚」
盲視で起こる「なにかある感じ」とはなんなのかということがわかった気がする。ということで忘れぬうちにメモった。
つまりそれは左右逆転メガネで獲得した新しい感覚のようなもので、盲視では通常の視覚経験のその代わりに新たな感覚経験によって置き換えられたのだ。これを「盲視感覚」と呼びたい。「視覚」「聴覚」などと区別する意味で。
機能的に操作したのでは意味がない。感覚の空間的構造で考えるならばそれは上下左右のトポグラフィカルな構造を持っているという意味で視覚に近いと言えるが、それが指し示すもの(テクスチュア、色などの意識のcontent)を外界に投影した形で経験できないという意味では聴覚もほうがまだ近い。
共感覚は元の2つの感覚を指し示すことが出来るし、四次元色(SML+1)があったとしてそれは色だろう。もし視覚、聴覚、触覚といった感覚を機能を元に区別することを避けたとしたら、感覚質そのものの違いを使うか、その感覚の空間的構造を使うしかないだろう。
わざわざ別の感覚と分けて考えたいのは、この感覚ははっきりとしたものであるにもかかわらず、たまに裏切られるという特性を持っているからだ。Zekiはこの特性をgnosanopsia/agnosopsiaと読んだが、これがpost-decision wageringがうまくできない理由でもあるし、Yes-noとforced-choiceとで成績が乖離する理由でもある。つまり、一文で言うならば「盲視感覚はveridicalでない」ということなのだろう。
ここまで考えてみると、盲視での「なにかある感じ」が視覚なのかそうでないのかの議論自体は不毛であると言っていい。意識経験であるのは確かで、しかしそれがveridicalでないという意味で独特である、ここを解明するべき。
盲視がいわゆる哲学的ゾンビの例として適切でないことはデネットだってチャーマーズだってネッドブロックだって言っているので、いまどきそういうナイーブな人はいない。それでも盲視には意味があって、なんで我々は自分の感覚を信頼することが出来るのか、メタ認知と記憶と学習とにどっかで繋がる。(錯覚で裏切られたとしてもその場合にはこういうときは裏切られるってのがわかる。だからそれはべつもの。)
いままでの話はtype II blindsightの話しかしてなかったけど、type I blindsightは実在するし、それもたぶん今の話の延長上で考えられるんではないかと思う。まだそこまで頭が回ってない。
その昔、「逆転地球」論文とか読んだことがある(2000年のqualia-MLでのやりとり)。あと、Noe and Hureyも関係してくるだろう。Mriganka Surの一連の仕事とか、David Ingle 1973のカエルのrewiringの話とか、いくつか関連するものを元にして以前の議論をアップデートして、講義の締めに使ってみようかと考えている。
Youtubeで盲視関連の資料探していたら、盲視のGY氏が普通に名前と顔出ししているのを見つけた。Ramachandran on blindsight
それからあと、Brain Damage affecting Perception in multiple ways -part 2/2 あとこれの後半(3:17-)ではGY氏が普通に自転車こいでるとことか心理物理実験してるところとか。
(大変重要な資料だと思うのだけれども、著作権的にアウトだから授業に使うことは出来ないだろう。上記のRamachandranのBBCの番組なんてふつうにDVDとして売ってほしいのだけど。)
Milner and GoodaleのDFさんもそうなのだけど、これらの人はいろいろ不便ではあるもののふつうに日常生活を営んでいるわけで、patient GYとかpatient DFとかいう表現をするのはなんか違うと思ってる。なるたけparticipantとかsubjectとかそういうかんじで表記したい。
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- / 投稿日: 2012年06月20日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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