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■ 研究集会感想からアクティブな知覚へ:コメント返答

前回のエントリにいただいたコメントに返答を書いてたら長くなりましたので、べつにエントリにしておきました。

>> 土谷さん、

こういう話をもっとしたかったですね。当日はほんとゆっくりしてられなかったですから。これはいつもこういう会を運営するときのジレンマです。

さてそれで返答ですが、わたしとしては土谷さんの指摘する点については逆だと思っていて、なんで夢や幻覚やimageryでの意識体験が普段の意識経験とそれぞれちょっとずつ違っているかを説明しようとしたら、そのような表象がどのように行動とつながっているかがそれぞれで違っていることを考慮しなければ足りないと考えています。

顔ニューロンから記録していたとして、表象としては夢でもimageryでも普段の意識経験でも同じようなものとしてしか取り出せないと思います。Imageryで活動するニューロンは同じものを見たときに同様なパターンで反応するし、だからこそそれがimageryについての応答と考えられるわけですから。そのような情報がどのように読み出されて行動につながるか、働きかけることが可能であるか、というところでこそ違いが出ると思います。

だから、夢の例は意識のpremotor theoryみたいなものからすれば反論というよりかは逆にそれを補強する材料となると思ってます。

また、sensorimotor theory的なものは、onlineで運動といつもカップルしていることを想定していないと思います。視覚運動変換による経験と学習とがofflineで脳内のニューロンに表象を作り、それをどうやって読み出すかということを規定する、という形で寄与していると考えています。じっさい、意識に機能があるとしてもonlineでなんかするというよりは、経験、学習、記憶のようなofflineのところでしか効いてこないことでしょう。(これは意識の機能の議論ではなくて、クオリアが入力によって自動的に生じるというよりは、学習や記憶の過程で後付け的にあったことにされるんではないだろうか、という意識の生成メカニズムの議論です。)

Alva Noeとかが好む説明だと、生まれつき目が見えなかった人が開眼手術直後にはものを見ることができないという話が出てくると思います。ある物体のアフォーダンスを獲得しないとその物体に対するクオリアはできないだろう、なんて作業仮説が作れるかもしれません。

だからそれを「ここでは、発達、発生、進化の話しは除外しています」という捉えてしまうのならば、私たちは別の話をしていることになります。私はneural correlate of XXを見つけるだけでは足りなくて、その先をどうすればよいかというところを考えているのですから。

以前ここで紹介した本に載っていたクリストフのインタビューでも、

ブラックモア:それらのニューロンを刺激して、患者が車をイメージしたと言ったら、あなたにとってはそれで話はおしまいですか?
クリストフ:いやいやまさか。そうするとそれらのニューロンがどこに投射しているか知りたくなるだろ。もしそのニューロンを取って、その対象を不活性化したらどうなる? (中略) 脳全体を歩き回ってNCCの特性をもっと明らかにしたいんだ。

という下りがあったのですが、そこで考えていることに近いといえるかもしれません。

それでread-outの問題も出てきてたわけです。ventral pathwayの高次視覚野にある脳内表象があったとして、行動につながる回路(dorsal pathwayやPFC)にそれがつながってゆくか、フィードバックで初期視覚野に伝わってゆくのか、その寄与が夢、imagery、普段の視覚経験でどう異なっているか、というようなempiricalな問題になると思います。

まあまたこんなことが議論できたらと思います。

>> nishiokovさん、

たぶん似たことを考えておられるのだと思うのですけど、「成立させるための条件」みたいな言い方だと間接的なものとして捉えられてしまうようです。「酸素がないと死んでしまうから酸素は意識経験の「成立させるための条件」だが、意識の解明で酸素について考える意義がない」のと同じで、「成立させるための条件」よりもっと直裁的な言い方が必要なのだろうと考えてます。

>> ふじーさん、

藤井さんの書いてあることはたぶん私の書いたことに関連したうえでの持論なんだと思うんですが、ちょっと文脈がとれませんでした。とはいえ、私のこのエントリも、藤井さんのエントリを見てインスパイヤされて書いた持論なんで、やってることは同じではあるのですが。

視覚意識の研究者が「ツールを作るという強烈な指向性がない」から「結局2番煎じの仕事しか出来ない」というふうに思ったということなのでしょうか? それともわたしがそうだというのでしょうか?

わたしじしんはSDTの拡張とか計算論的モデルへの志向を持ってますし、なんか哲学かぶれなことも書きますので、それを「既存技術の精緻化」とか「言葉はツールじゃないです」と批判されうるとは思いますが、それも私としては使える道具を増やすという意図でやってます。


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