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■ 意志決定の曖昧さ2: 自分はもうひとりの自分である

さて、今回は長いです。どちらかというと趣味全開で。ニスベットとウィルソンまで歴史を追って辿りついてみます。歴史順に再構成すると、フェスティンガーの「認知不協和理論」から始まります。前回の「酸っぱいブドウ」は俗っぽい説明で、あれで正しいのかどうかは自信がないのですが、正しくはオリジナルの「1ドルの報酬」実験から説明すべきなのです。実験に関してはたとえばこちらのサイトとかをどうぞ。

手短にいうと、被験者はある退屈な作業をしてから、次の被験者に「作業は面白かった」と伝えるということをしなくてはいけない。この報酬として1ドルもしくは20ドルもらう。そのあとで率直な意見として作業は面白かったかどうかを実験者が聞く。作業が面白かったと評価したのは1ドルもらった側(20ドル側ではない)だった、というわけです。報酬による強化だけを考えればこのようなことは考えられないので、なんらか認知的な要素を考える必要がある、という意味で認知科学にとって大きな成果だったわけです。

つまりこの結果を説明として、1ドルもらった人は、「仕事が面白くなかった」という内的な評価と「仕事が面白いと次の被験者に伝えた」という行動とが整合的でない(「認知的不協和」の状態にある)。ゆえに、「仕事が面白くなかった」という内的な評価を変えて「仕事が面白かった」という評価にしてしまう。それゆえ、実験者に「仕事は面白かった」と伝えてしまう。一方で、20ドルもらった人は「仕事が面白いと次の被験者に伝えた」という行動が20ドルのお金のためにやった、という納得があるので、「仕事が面白くなかった」という内的な評価とのあいだに「認知的不協和」は起こらないから、評価は変わらない。実験者にも「仕事は面白くなかった」と伝える、というわけです。これは「葛藤」のような感情の問題ではなく、認知の問題であり、多分に意識せずにやっている(たんなる欺瞞ではない)というところがポイントです。

認知的不協和理論は「認知的不協和」という状態を仮定するという意味で認知科学的な考え方です。ベムの「自己知覚理論」は認知的不協和理論に対するスキナー派からの対案という側面があります。つまり、1ドル報酬実験を説明するのに「認知的不協和」というようなブラックボックスを仮定する必要はない、というのです。「自己知覚理論」では、「人間は自分の態度や情動などについての内的手がかり(内観)が充分に利用できない状況では、自分の行動や周りの環境から推測する、つまり、他人の態度や情動を推測するのと同じことになる」と考えます。

この考えで1ドル報酬実験を見ると、被験者が自分の態度を他人を見るように推測するなら、20ドルもらったときに次の被験者に言った「仕事が面白かった」は金のためにやったと推測するのに対して、1ドルもらったときに次の被験者に言った「仕事が面白かった」は金のためにやったとは思えないからほんとうに面白かったのだろうと推測する、というわけです。

じっさいにこの考えが正しいことを証明するために、この実験をしているところを録音しておいて、被験者が仕事を面白いと思っているかどうかをそのテープを聞いた人が推測してみました。そうすると、1ドル報酬のときのほうが被験者が仕事が面白いと思っていると推測した、というわけです。

ただ、これは自己知覚理論でも説明できるという話で、これでは認知的不協和理論を積極的に排除することは出来ません。しかも、たぶんスキナー派と認知科学の代理戦争みたいな側面もたぶんあったんだと思うんですけど、論争は泥沼化して、明確にどちらが正しいという結論が出ずに終わります。このへんの経緯については認知的不協和理論―知のメタモルフォーゼが詳しいです。ベムの終戦宣言みたいなものがありますのでこの本のP.73から引用します。

我々が不協和現象を採りあげたのはその知見を再現することが、観察者と実験事態にいる被験者の相互交換性を基本仮説とする自己知覚理論の検証につながるからである。この限りでは、なにも論理的不協和理論との対決を目指すものではなかったのである。しかしながら論理的不協和論者はこうしたことを理解しようとせずに、徒に対決を煽り立ててきたのである。また我々の知見に対しても、手続き上の欠点を言い立てるだけであった。このような状況ではいくら議論を重ねても無駄である。両者は本来べつの現象を取り扱っているものとみなし、それぞれの理論の適用範囲を明確にしたほうがより生産的と思われる

あっちゃー、すごいもん見た。とまあ、脱線なのですが、こんなかんじだったらしい。

さて、じつは今回の話的には認知的不協和理論よりは自己知覚理論のほうが重要です。さっきさらっと書きましたが、ベムの自己知覚理論は内観よりも推測の方を重視しています。オリジナルの表現を載せておきます。

"Individuals come to "know" their own attitudes, emotions and other internal states partially by inferring them from observations of their own overt behavior and/or the circumstances in which this behavior occurs. Thus, to the extent that internal cues are weak, ambiguous, or uninterpretable, the individual is functionally in the same position as an outside observer, an observer who must necessarily rely upon those same external cues to infer the individual's internal states." (Self-perception theory. p.2 In L. Berkowitz (Ed.), Advances in Experimental Social Psychology, (Vol. 6, pp. 1-62). New York: Academic Press.)

ところで、どういう根拠で内観よりも推測を重視するのか、どういうときにinternal cueが弱いのか。これだけではわかりません。たとえば1ドル報酬実験での「仕事が面白くなかった」という内観はなにと比べて"weak, ambiguous, or uninterpretable"と言えるか、という問題ですが。日本語の文献をよむかぎり比較的ここはスルー気味です。「自己の姿の把握の段階」では「どの範囲で自己知覚は他者知覚と同等であるのか、どの範囲で、本人特有の内的な手がかりが存在するのかを、問わなければならないであろう。」と書いてます。ようするに「自己の認知を知る手がかりはじつは他者が推測するときに使っている手がかりとそんなに変わらない。だから、内観はあまり使っていないのだ」っていう論理なわけでして。

もとのスキナーの考えのほうは、子どもが「痛いという内的状態」を獲得する過程では、他者にも観察可能な「泣いている」という行動("overt behavior")や頭をぶつけたとかの顕在的刺激変数とが必要である、というものです。これは起源論なので、そのような内的状態の記述を獲得したあとで内観はどのような位置にあるのか、ということについてスキナーがどう扱っているかはここだけだと不明なのですが。ともあれ、ベムは反内観主義的な立場にいます。「サブリミナル・マインド」ではここを重視します。

「とくに自己知覚理論では、自分についての無意識な推論を他人についての推論とほぼ同じ過程だとみなしてしまう点に、最大の洞察があります。極言すれば、自分はもうひとりの他人であるかもしれないのです。」

さて、このようなベムの自己知覚理論が原因帰属理論に包括されるものであると捉えられてゆくのが次のステップです。ハイダーの原因帰属理論というのは、他者の行動を知覚してその原因を帰属する際に、「内的で個人的な原因」と「外的で環境的な原因」がある、とするものです。これをケリー1967がANOVAモデルというのを作って精緻化します。たとえば、ある人がある映画に感動したとします。このとき、その人が他の映画を見ても同様には感動しなかった、他の人がその映画を見たとき感動した、ということを元にして、感動の原因はその映画にあると結論づける、と言うわけです。

それで、ケリーがベムの自己知覚理論もANOVAモデルで扱えると指摘しました。ベム自身もこれを認めて、原因帰属理論というのは一般に他者の知覚の理論なのだけれど、自己知覚理論はその他者が自分であった場合だというふうに捉え直されたわけです。(こうなると、上記の「終戦宣言」もそんなに悪くない気がします。) ちなみにシャクターの情動理論も情動に関する帰属理論のひとつとして捉えることが出来ます。

さて、いよいよニスベットが出てきます。ジョーンズとニスベット1972では、原因帰属の仕方が「行為者」であるか「観察者」であるかによって大きく変わる、と言っています。この「行為者」と「観察者」という区分はさまざまな重要な意義を持つと思います。私はここにめちゃくちゃ感銘を受けて、今回のサーべイをちょっと神経生理学者らしからぬところまで広げてしまったしだいです。これについてはまたべつにエントリ作ります。

ジョーンズとニスベット1972の仮説は「ある行動をした本人、つまり行為者は、自分の行動の原因を、周囲の状況などの外的要因に帰属しがちであるのに対して、その同じ行動を見聞きした他者、すなわち観察者は、行動の原因を行為者の内部にある安定した属性・特性に帰属する傾向がある」というものです。簡単に言いますけど、俺が怒ってるのはいろんな不運があったからだけど、君が怒っているのは怒りっぽいから、みたいな考え方の傾向ですな(簡単にしすぎー!)。原因帰属理論では二つの原因があって、「内的で個人的な原因」と「外的で環境的な原因」でしたが、どちらに原因を帰属するかが「行為者」であるか「観察者」であるかによる、とするわけです。

なぜこのような差が生まれるか。ひとつは行為者は自分の行動に関する内観を利用できるからです。内観が利用できる分、行動の原因を内的なものに帰属しやすい。ベムの自己知覚理論はそのような内観が利用できないときには自分に対して観察者となる、というふうに捉えられるかもしれない。(お、いいこと言った気がする。ここは又引きではないですよ。)

もう一つの説明は、視点、視野の違いによるとするもの。観察者は行動と環境とを両方見ることが出来る。その状況では行動と環境が図と地の関係になって、行動が目立つ。行為者の場合は一人称的な視野で自分の行動が見えにくい。環境のほうが主となる、というわけです。どっちでも納得がいくかんじがします。どう決着付いたかは参考文献からはわからなかったですけど。ともあれ、この考え方は、ベムの自己知覚理論を引き継いで、自己知覚と他者知覚の違いは「行為者」と「観察者」との違いであって、本質的な差ではない(だから内観が十分に利用できないときは区別できなくなる)という帰結になるのではないかと思います。

さて、ニスベットはこのような考え方を進めて、ベムの自己知覚理論よりもより強烈なことを言います。ベムの自己知覚理論の仮定は「自己の態度や感情などの内的状態を直接に知る手がかりは乏しい」というものでした。ニスベットとウィルソン1977(Nisbett, R. E. and Wilson, T. D. (1977). Telling more than we can know: Verbal reports on mental processes.(PDF) Psychological Review, 84, 231-259.)ではこれをさらに進めて「人間は、評価、判断、推論を含むような高次の心理過程が自分の中で生じていること自体を、直接的に意識することはできない」と主張したのです。薔薇の赤さのクオリアはある。感情のクオリアはあるか。思考のクオリアはあるか。つまり、直接的に意識しているのではなくて、「推論している」のだと。反内観主義という意味でベムの考えを引き継いでいるわけです。

つまり、1ドル報酬実験とかで「仕事が面白かった」と報告するとき、その言語報告はけっこう不正確なものなんだと言うのです。ニスベットとウィルソン1977では、認知不協和理論の実験や原因帰属理論の実験のデータを持ってきて、「言語報告」と「行動または生理的効果」とが食い違うという例をいろいろ挙げています。

たとえば、Zimbardo et al 1969の電気ショック実験。被験者は電気ショックに耐えながら学習をする課題を行います。そのあとで、被験者はもう一回同じ課題をやってもらうことを実験者にお願いされる。充分正当な言い訳があるグループ(「この実験は大変重要で、もう一回行わないと無駄になってしまう。」)と充分な言い訳がないグループ(「ちょっと面白そうだからもう一回やりたいんだけど。」)とに分けます。充分な言い訳がないグループでは、もう一つの方と比べて学習効率も上がるし、GSRの反応(情動の生理学的指標)も下がる。これ自体は上記の認知不協和理論で説明できるます。充分な言い訳がないグループでは、痛みが少ないというふうに(無意識に)評価を変えたわけですね。だからGSRも下がった。重要なのは、このとき電気ショックの痛みを報告してもらっているのですが、痛みは一回目と二回目とで変わっていない。つまり評価を変えたことを被験者は意識できていないわけです。このような例は閾値下知覚の実験なども含めていろいろ出てきます。

この結果、ニスベットとウィルソン1977はこうまとめます。認知不協和理論の実験や原因帰属理論での被験者は、1) 実験で加えられた操作によって評価や態度の変化が起こったことを報告することができないことがある。2) 実験で起こっている認知過程を報告することができないことがある。3) 刺激の存在を見出すことができないことがある。 4) もしたとえ刺激とその応答の存在を知っていたとしても、両者の関係をただしく報告することができないことがある。

そういうわけで、この論文は内観に基づいた言語報告がいかに間違うものであるかを示すために引かれる古典的論文となったわけです。

ニスベットとウィルソン1977によれば、被験者の言語報告というものは、自分の認知過程についての意識を報告しているというよりは、「暗黙の因果理論」もしくは「因果関係についてのアプリオリな理論」に基づいた一種の推論によるのだというわけです。ちなみに「サブリミナル・マインド」では「もっともこの「暗黙の因果理論」の正体が、ニスベットとウィルソンの議論の中でも、今ひとつはっきりしないのですけれども。」と書いてます。のちのニスベット1980ではこの推論がカーネマンとトバルスキーの議論で出てくるようなヒューリスティックスとしているようです。ヒューリスティックスだから当然なんらかバイアスがあるわけです。たとえば少数の例を一般化するとかそのたぐいのやつです。手っ取り早く結論は出せるけど、バイアスがある。だからこそけっこう間違う。やっと今回のchoice blindnessのScience論文につながりましたね。

前回書いたScience論文のノイエスに関してもう一度いうと、これまでの社会心理学の実験、たとえば上記のフェスティンガーの1ドル報酬実験などでは、1ドル報酬のグループと20ドル報酬のグループとのあいだでの言語報告の違いとして効果が出る(グループレベル)わけですが、choice blindnessの実験では個人レベルで効果を見ることが出来るというわけです。それだけでなく、choice blindnessの実験はかなりシンプルなものですから、1ドル報酬実験のようなさまざまな要素が混ざっていて解釈の難しい実験よりもいろんなアプローチがしやすい(brain imagingだってできますよね)ということも特筆すべきだと思います。

以上を踏まえた上でScience論文の続編のConsciousness and Cognition Volume 15, Issue 4, December 2006, Pages 673-692 "How something can be said about telling more than we can know: On choice blindness and introspection"(PDF)についてですが、手品で顔が交換された条件(manipulated)とコントロール条件(non-manipulated)とで被験者がなんでその顔を選んだかについての言語報告を分析しているのですね。詳しいことはよくわからないけど、word frequencyだったり、いろんな言語学的解析法で。

しかし、manipulatedとnon-manipulatedとで差は見つからなかったと。じつはScienceのほうでもemotionality, specificity, certaintyというカテゴリーを作ってみて、manipulatedとnon-manipulatedとで差は見つからなかったと言っているので、それの延長にあります。こっちの論文の結果ははっきりしませんが、いいたいことはScience論文にある、

"On a radical reading of this view, a suspicion would be cast even on the NM (non-manipulated) reports. Confabulation could be seen to be the norm and truthful reporting something that needs to be argued for."

つまり、我々のふだんの言語報告もmanipulated条件で見られるようなconfabulationと同じなのかも(超訳過ぎ)というかんじでしょうか。ここはとてもおもしろい。

参考文献:


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