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■ 嗤う日本の、とか

3月に書いて寝かしていたやつに手を加えて貼ります(<-言い訳がましい)。
ここさいきん買って読んだ本は「嗤う日本のナショナリズム」 嗤う日本のナショナリズム「電波男」 電波男です。ネットネタに偏りすぎていて相当気恥ずかしいのですが。
つまり、「電車男」と「電波男」のどちらを選ぶかという問いに、すくなくとも「電波男」の方は買いました、と私は答えたわけです。というか「電車男」のまとめサイトのログは保存して最初の方を読みましたけど、ネタくさすぎて途中で放棄しました。「電波男」のネタベタ混交というのとはまた別もんだと思うんですがね(後述)。わたしは「しろはた」のよい読者ではありませんでしたが、えいえんのせかいに応答するトラウマ度の高さという点において共振した、と回りくどく記しておきましょう。「電波男」はなにげに題材は「タクシ_ードライバー」や「バッフ_ァロー'66」だったり、「津山事件」だったりして、オタク知識をあまり前提としない(布教したりしない、えいえんの世界と二次元の世界をつなげて考察したりしない)、というあたり、オタクへ向けたアジテーション(「エルメ_スのカップをたたき壊せ」)だけでなく、非オタクの人に向けても届くように書く著者の本気度が伺えます。とはいえ、「電波男」のネタくささ(本屋の棚でのサブカルコーナーへの収まりの良さ)が大きく障害になって非オタクの人(とくに、著者が標的としている「エルメ_ス」みたいなひと)が手に取るとはとても思えないのだけれど。(「電車男」は新潮社ブランドだけでなく、ほとんど未編集であるにもかかわらずなんらかのパッケージングの良さでそこから脱出したわけで、それがなんなのか、読んでないので私にはわかりません。「電車男」のネタくささは「電車男」と板住人との関係で閉じていて、本を読む人はそれを外側から読むから安全である? 「電波男」はそのメッセージのネタベタ混交を本を読む人が受け止めなければならないのであれこれ言いにくい、という点でネットの流儀を活字に持ち込んだふつうにサブカルな本だとおもう。追記:この「サブカル」は本屋の棚のことなので、オタク対サブカルの対比とは関係なく、両者を含みます)。ところで売れたんですかね。私の地元では町じゅうの本屋探してやっと見つけた、というかんじでしたけど。(けっきょくamazon使った方が早かったりして。)
「嗤う日本の」は「世界」の同名論文を読んで以来期待していたものですが、意外や意外、最初の連_合赤軍のところで出てきた「自己否定から総_括へ反省を極限までを推し進めた末で生まれたフォル_マリズム」、というやつが一番おもしろかったです。この種の「形式主義」はいろんなところで出てくるわけです。起源と成立を問えなくなっている形で閉じているあらゆる種類の言説にこの問題が関わっているのでは、なんて極論してみたくなるくらいに十分よく抽象化して抽出された形式だと思うのです。(なんて堅苦しく言わなくても、上の人に無理難題言われるようなシチュエーションすべてで成り立つってことですな。)(追記:「反省」という言葉から最近の大事件でのアレにつなげて考える人も出てくるでしょうな。)
「ロマ_ン主義的シニ_シズム」というやつはなにか不十分というか捉え切れてないと思うし……それはたんに現在進行形のことの多様性を捉えきれない(それが、いまぷ_ちナショナ_リズムであることを偶然的なものにおとしめているとか)のは当たり前ということではなくて、なんというか形式として十分煮詰まっていないというか、いや、煮詰まったならばもっと決定的な事件としてそれは後付け的に捉えられるというだけのことなのかもしれない、時代精神自体が煮詰まっていないことの反映なのかもしれないのだけれど……いや、単一の事件に象徴させようということ自体よいことではないのだけれど(90年代をオウ_ムや酒鬼_薔薇事件に象徴させるということをこの本は賢明にも避けたわけだし、といっても連_合赤軍も使ったわけだし……使わなければ筋は通ったろうけど、地味になったろうなあ)。
なんだろ。うまくいえないので、「起源を問えなくなっている形で閉じているあらゆる種類の言説にこの問題が関わっているのでは」というほうをもっとちゃんと書くことで対比させるべきなのでしょうな。いいや(<-放棄した)。


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