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■ 河本氏の「表象」とヴァレラの「表象主義批判」

私のwebページを読んでくださったMさんからの質問(河本氏の「表象」とヴァレラの「表象主義批判」に関して)への返信部分。
河本氏の言っていることについてはそういう感じだと思います。問題はヴァレラらの表象主義が具体的に何を指しているかだと思います。
河本氏の「言ってみれば表象は、観察された思考である。」(「第三世代システム オートポイエーシス」青土社275ページ)と言うときに使う「表象」という言葉は、Mさんご指摘のとおり、[心的システムの作動の高次化によって作り出された観察者]からの視点で構成された「見かけ上の区別」について指している言ってよいと思います。
一方、ヴァレラらが表象主義を問題としているのは、認知科学における表象主義がそういう「表象が構成される」という視点を持っていない点です。ヴァレラらは「表象」自体を否定してはいません(弱い意味での表象、後述)。「知恵の樹」(ちくま学芸文庫186-7,198-9ページ)で言うように、認知科学における表象主義では、[神経システムが外界からの入力を変換してシステム内に表象を作る]というアプローチを取るが、ヴァレラらのオートポイエーシス的観点からすれば、[表象とは、入力が引き起こす結果ではない。神経システムは、システムの作動への擾乱を特定することによってひとつの世界(=表象)を生起させている]ということになります。河本氏とそんなに違ったことを言っているわけではないと思います。また、ヴァレラらは「知恵の樹」では言葉を尽くしていないので、"The Embodied Mind" The MIT Press, by Varela, Thompson and Roschを読むと、「表象」の何を問題としているかがもっとはっきり書かれています。


「表象」には二つの意味がある。弱い意味での「表象」とは、語義の通り、[何かほかのことについて指していること]を指す。たとえば、地図はある場所について指している。[地図がある場所のある特徴について表象している]と言うときの「表象」という言葉には何の問題もない。[認知作用が世界をある種の形で解釈し、表象している]と言うことには何の問題もない。一方、強い意味での「表象」という言葉は、[認知作用とは、認知システムが内部表象を元に働くことである]という認知主義的言説で使われる。これは存在論的、認識論的仮定を置いている点で問題がある。つまり、外部世界はわれわれの認知とは独立して存在していて、そして[外部世界からの入力によって認知システムに形成された内部表象]をわれわれは操作している、と仮定している。外部世界の実在論は精神と認知の説明を二元論的にする意味で問題がある。(134-7ページ要約)

心の哲学的言い方でいえばこれは表象の「志向性」としての働きには異論がなくて、表象の「外在主義」に問題がある、ということなのでしょう。(「外在主義」の言葉遣いには自信なし)
まとめますと、河本氏もヴァレラらも「表象」を(認知)システムによって構成されるものとして捉えている。ヴァレラらが問題としているのは、[表象主義が、あらかじめ与えられている外部世界からの入力を処理してできた出力として「表象」を捉えていること]ではないかと思ってます。
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私が言えるのはこれくらいでしょうか。私自身としては、表象とは何かという問題になったら、心の哲学の人たちの本を読み込まないとわからんかもと思ってます。それでM. Tyeの論文とか信原幸弘氏の「心の現代哲学」勁草書房とかを読んでいたりする次第です。
なお、脳科学者としての本音を言えば、情報処理装置として脳を捉えることを否定して得られることよりも、肯定して研究を進めて得られることのほうが多いです。私も本業ではそうやってますし、そうでない方法はまだないでしょう。ヴァレラらの言ってることもどうやったら経験科学に持ち込めるのかを示さない限り、「ああ、哲学は別にいいから」と脳科学者に言われるのが落ちです。(ジョン・サールは「哲学は科学には必ず負ける。なぜなら哲学で扱っていたものが体系的に扱えるようになったときそれは科学と言われるようになるからだ」と言いました。)それでもこの問題は意識の問題において重要になるのに違いない、と思ってこっそり内職しているというのが現在の私の状態というわけです。加筆:ヴァレラの「神経現象学」が経験科学としてうまくいっているかどうかいまいち納得できてない。少なくとも、「単なる精神物理学とどう違うか」という質問に私はうまく答えられないです。


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