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■ ジョン・マクダウェル「『心と世界』レジュメ」から抜き書き

以前ラットの因果推論のあたりをいろいろ調べたときに考えたのは、「意識どころか因果推論という『思考』でさえも純粋に行動からは定義することは出来なくて、われわれは言語や自分自身の直感に照らし合わせることで自分のやっていることを『思考』だと思っているだけなのでは?」ということだった。

そんな理由で「『心と世界』レジュメ」を見ながらジョン・マクダウェルの「心と世界」訳本の該当部分を追ってる。マクダウェル(+エヴァンス)の言う意味での「概念能力」をもたない(人間以外の)動物における「動物の経験」という議論がある。

経験を概念能力と結びつけるような厳密な意味での経験の観念を、自発性を持つ人間には適応できるが、自発性を持たない動物では適応できない。(p.112)

自発性:なにを考えるべきかを経験の引き渡すものに照らし合わせて決めるという能動的な自己批判的活動において行使される能力(p.92)

人間は(人間以外の)動物とおなじく[環境の諸特徴に対する知覚的感応性]を持っているが、人間の場合その[…知覚的感応性]は自発性の能力の勢力圏内に組み込まれているという点が(人間以外の)動物と比べて違う。(p.114まとめ)

第6講義の4:動物は環境に対応する感応性によって自分の環境に見事に対応している(環境のうちに生きている)という意味では主観性という観念に似たものがあって、デカルト的な自動機械ではない。=> 主観性というよりもむしろ原主観性 (p.193-194)

それに対して人間は世界から我々への干渉として追ってくるものを乗り越えて「自由で離れた態度」を世界に対してとることができる。=>世界のうちに生きている (p.192-193)

こうなってくると「自発性」ってけっきょくなによってところが理解すべき点か。「心と世界」の主題の非概念的、概念的内容についてはすでにグッデールの二つの視覚説からの言説が複数ある(信原氏、門脇氏、小口氏)ので一見取り組みやすそうだが、分析哲学知らずに概念を語るのは無理なのでパス。

第6講義の6:ネーゲルの「コウモリにとって反響定位をするとはどのようなかんじか」という問いはコウモリには(マクダウェルのいう)原主観性しかないのに、あたかも十全な主観性があるようにネーゲルが扱っているがゆえの(誤謬)。

ということで(人間以外の)動物には自発性に基づいた概念能力によって世界の中に生きられないがゆえに人間のような経験を持たず、あくまで環境のうちに生きている、ということになる。

第6講義の7:じゃあどうやって進化で自発性が出来たのって話になるわけだが「意味への応答を含む第二の自然は人間がふつうに成熟する中で獲得されるという事実を進化論的に説明することは、意味に応答できるとはどういう子とかを構築的に説明することとはまったく別であろう。」(p.205)


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