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実体vsプロセス、お話と力学系

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(20240117) 「ティンバーゲンの4つの「なぜ」」の図式に基づけば、NCC的な説明(「脳活動が因果的に意識経験を生み出す」)は「メカニズム」による説明であり、エナクティヴィズム的な説明は「系統発生」による説明である。と以前議論して、「我々が生きるためには酸素が必要だが、酸素は生命の説明にとってはただの前提条件であり、トリヴィアなものだ」という議論でsensorimotor contingencyを酸素と同一視するような議論に反論したことがある。

それとは別の文脈で考えていたのだけど、おばあさん細胞の活動を説明するという観点では、「おばあさんという視覚刺激によっておばあさん細胞が活動した」という因果的説明は間接的だ。よりもっと直接的な要因がシナプス入力であり、HH方程式という微分方程式で説明される。こういうふうに考えれば、脳の情報処理的な説明と力学系的な説明との違いを明確にできて、「因果」という概念を追い出すことができる。(微分方程式に因果はない)

あとで清書するけど、とりあえず忘れないように文脈をつけておくと、 感覚運動随伴性説SMCでは「agentが外界に行動によって介入してそれによって間隔入力が変わるというループを形成した経験が知覚経験には必須」と考えるが、それは「生命にとって酸素が必要なのと同じで、知覚経験の必要条件に過ぎない。知覚経験の説明に必要なのは、そのときどのような脳状態になっていたかというようなメカニズム的説明だ」という議論があった。それに対して、SMC(というよりもエナクティヴィズム)は「系統発生、発達」的な説明をしている、と議論した。

では両者のどっちが重要なのかという問題だが、それについては深層学習を取り上げて議論した。

つまり、AIがどうやって視覚刺激を弁別しているかを説明するのに、メカニズム的説明では、それは単に個々のニューロンがシナプスからの入力から出力を計算しているだけ、としか言えない。

AIの能力を説明するためには「事前にどうやって学習しているか、シナプス重みを変化させて収束させているか」が大事であって、AIの能力として説明するべきことは実際の能力を発揮する前の段階にある。

そういうわけで、オンラインのメカニズム的説明を重視するというのはわれわれ神経科学者にありがちな認知バイアスでは、と議論した。

そうしてみると「生命にとって酸素が必要条件なのはトリヴィアルなことだ」という議論も同じように見直すことができる。つまり、「生命に大事なのはDNA-RNA-タンパク質という信号伝達である」というようなメカニズム的な説明に対して、酸素、というよりも酸素を含んだ代謝のネットワークというものの成立こそが生命によって必須であり、それはけっしてトリヴィアルな話ではない。マトゥラーナ、ヴァレラのオートポイエーシスでの生命の定義では「遺伝、複製、生殖」が入っていなくて、むしろ代謝と細胞壁を本質と置いているのだけど、こうしてみると(オートポイエーシスとエナクティヴィズムの間で)おなじく筋が通っているなと思う。

ここでは同じ発想が流れている。つまり、実体vsプロセス、ということ。意識について「おばあさん細胞」を重視し、生命について「DNA」を重視する観点は、意識や生命についてなにか実体を見つけたい(=還元主義)という発想を反映している。それにたいして意識について「感覚運動ループ」を重視し、生命について「代謝」を重視する観点は、意識や生命についてある種のプロセスとして捉えたいという発想を反映している。

これはいま書いてる本のどこかに使えそうだ。まあ、いままで書いてきたことと代わり映えはしないかもしれないけど、ひさびさに文章を書くモティベーションが出てきた。こうしてなんとかリハビリしてゆきたい。

以前はこういう実体vsプロセス、みたいな話まで見えてきたので、エナクティヴィズムのようにプロセス側に逆張りするだけでは不十分であって、実体とプロセスがお互いがお互いを必要とする方な形で離れがたく結びついていることをどうやって扱えばよいか、という問題意識に至っていた。そこからが本題なのだけど。

つまり、いま書いている本でも、ひととおりエナクティヴィズムの説明を書いたところで終わりではつまらないと思っていて(そういう本はまだないので意義はあるのだけど)、ではそれを実体的、還元主義的な発想とどう繋げてゆくかというのが問題で、そこで(因果に依存しない)力学系的な説明の出番となる。それはAIが出してくる結果が説明不可能であり端的にそうなっているとしかいえない、というのとたぶん通底している。「説明」を人間的な因果に訴えたお話ではなくて、微分方程式やAIのように端的にそうなっているとしか言えないような形のものに拡張する必要がある。

それでも人間には「お話」が必要だというジレンマがあって、われわれはそのふたつを行き来できるようなリテラシーを身につける必要がある、というかこれからのAI時代にそういうリテラシーを身につけるようになることで、われわれの「説明」観は変わり、「現実」観も変わる、みたいにまとめられるか。

いま「量子力学は、本当は量子の話ではない : 「奇妙な」解釈からの脱却を探る / フィリップ・ボール著」を読んでいるのだけど(いや読んでない、積んでるだけ)、ここでも量子物理での奇妙な解釈(「重ね合わせ」とか「シュレディンガーの猫」とか)を廃して、「黙って計算せよ」という立場をひたすら保持している。(いやちょっとめくっただけなのでわからんけど、骨子はこういう話と推察。) ここでも「端的にそうなっているとしか言いようがないが、計算すれば予想に使える」という立場なんだと思う。物理帝国主義に追従する必要はないけど、「端的にそうなっているとしか言いようがない」という可能性にオープンであるほうがよい。

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