ジョン・コルトレーンの「回心経験」とLSD
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『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』(アシュリー・カーン)を読んでいた。有名なエピソードだけど、コルトレーンが麻薬中毒でマイルスのバンドをクビになって、その後に啓示的体験があったという。
「1957年、わたしは神の恩寵により精神の覚醒を経験し、より豊かで充実した、意義深い人生を歩みはじめた。そして感謝の念を込めて、音楽を通じて人を幸せにする力と栄誉を与えてくれるよう神に祈った。(「至上の愛」のコルトレーン自身によるライナーノートより。上掲書p.63)
そこからシーツ・オブ・サウンド、モード・ジャズ、フリー・ジャズを駆け抜けて10年で死去するわけだが、あの啓示的体験とは何だったのか。
そもそも上記の書籍には麻薬中毒というのが正確に何なのかが書いてない。調べてみるとヘロインだった。たしかに麻薬中毒という言い方で間違いない。
確かなことは、1957年5月のある時点で、コルトレーンは毎晩クラブに出演しながら、自らの強い意志により悪癖を断ち切ったということである。(上掲書p.64)
(トランペッターの)ジョニー・コールズがその店にいてずっと彼のそばについていたそうです。ジョンは2階の彼の部屋で寝泊まりし、そこで麻薬常用を克服したんです。(上掲書p.65)
この変化を目の当たりにした(ピアニストの)マッコイ・タイナーは
変化のあと、トレーンのプレイはまるで別の人格を帯びたようになった。(上掲書p.66)
と語る。
こちらのブログによれば、それは「1957年4月20日 Dakar のセッションと、同5月17日のプレスティッジでのセッションの間」とのこと。
でもそれはヘロインとアルコールからの脱却にとどまらず、ある種の回心経験だったのだとコルトレーンは語る。
数年前、わたしは信仰を取り戻した。一度失った信仰を再び手に入れたんだ。わたしは信仰心の厚い家庭に育った。わたしのなかにあった信仰の種が再び芽を吹いたんだよ。これもすべて人生が神に導かれていることによるものだろう。(1965のインタビューにて。上掲書p.63-64)
ここでの神とは、元々はキリスト教の神だったんだろうけど、神の概念がだんだんより普遍的なものとなってゆく。後にコルトレーンは"Om"でバガヴァッド・ギーターの一節を朗読したり、"Meditation"のライナーノートで「私はすべての宗教を信じる」と書く。(Wikipedia記事での小項目「1957 "spiritual awakening"」より)
今回はじめて知ったのは、1965以降のファラオ・サンダース加入後の新しいバンドで、コルトレーンはLSDを試していたということ。とくに前述の"Om"では録音中にLSDを使っていたらしい。Wikipediaの記事: Om
以前も書いたが、普通にトリップする用量を使ったら演奏はできないので、これもマイクロドーズだと考えたほうがよいだろう。
コルトレーンとLSDについてソースを探してみるとUsenetのアーカイブが見つかった。日付は1994年。インターネットすげえ。
その記事では、以下の書籍を引用している。Eric Nisensonの『ASCENSION: JOHN COLTRANE AND HIS QUEST』(1993)によれば
ジョン・コルトレーンは1965年のある時期から、かなり定期的にLSDを使用するようになった。その年の後半にOMをレコーディングしたときだけLSDを使用したと言う人もいるが、カルテットのメンバーを含む多くの人によれば、彼は人生の最後の数年間、実際にはもっと頻繁にLSDを使用していた。
この部分を引用しながら、このUsenetの書き込みではコルトレーンを擁護する。
1994/11/29 1:00:11 私はヘロインやアルコールを、LSDと同じカテゴリーには入れない。コルトレーンは1957年にドラッグを断ち切ったということには変わりがないと思う。彼にとって(私自身にとってもそうであったように)自分の魂、心、そして世界における自分の精神的な位置を理解する上で、LSDは非常に役立つことが証明された。
というわけでここから事実関係について、そしてLSDを使うことの是非についての論争が始まる。
これだけでは文脈が充分伝わらないかもしれない。ヘロインやアルコールが報酬系と快楽系を操作するという意味でリクリエーショナルドラッグであるのに対して、LSDは自我を一時的に壊し、自我のない意識という純粋意識または死を経験するドラッグであり、精神の探求のためのツールとして使われてきたということが大前提にある。いま「幻覚剤は役に立つのか 亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ」(マイケル・ポーラン)を読んでまとめているところなので、どっかでこの論点についてはブログ記事にしておきたい。
さて、いつもどおり取っちらかってきたので、ここらでまとめに入ろう。
けっきょくのところ、「あの啓示的体験とは何だったのか」への答えが出るようなはっきりとした手がかりは見つからなかった。なんだか「いかがでしたか?ブログ」みたいで残念だが。
でもここでは、コルトレーンがヘロインとアルコールから脱却したこと、さらに1965年以降のLSD経験という新たな要素を加えて、コルトレーンが薬物とどう対峙してきたかという視点を作った。
一方で、たとえば「コルトレーン ジャズの殉教者」(岩波新書)では、ナイーマとの離婚、アリスとの結婚などを中心にして「至上の愛」への過程を描いているので、それとは違う道筋と言える。
今回はここまで。