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「意識の介入理論」に向けて

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以前ブログ記事「田口茂「現象学という思考」合評会行ってきた!」でも書いたように、現象学的にはわれわれ意識を持つ人間は「行為的連関のモード」と「反省的思考のモード」とを行き来する。ある生き物が意識経験を持つためには「行為的連関のモード」だけでなく「反省的思考のモード」へと移行することが可能である必要があるだろう。

脳の話に変換して言えば、ニューロンの活動はそれだけではただの物理現象であって、「そうであったかもしれない可能性を含んだ確率分布を持つこと」がなければ「表象」とはなりえないだろう。意識に必要なのはこのような意味での表象であって、「おばあさん細胞の活動」そのものは意識に必要な表象を作るための構成要素という位置づけに最終的にはなるのではないか。

このように考えて、わたしは意識に関するenactivismから、enactivismであると同時に表象主義的でもあるという方向に移りつつある。そしてそれを計算論モデル的に扱うのに有望そうな題材がFristonの自由エネルギー原理FEPだ。Anil Sethが書くように、FEPはsensorimotor contingency説と整合的であるだけでなく、わたしがKフォーラムのときに喋ったように、(鈴木貴之さんのいう)ミニマルな表象主義ともと整合的であり、sensorimotor contingency説と表象説とを統合する説明となりうる。

とはいえFEP自体は第三者的な工学的な理論であって、これそのものは意識の理論ではない。つまりIITのΦが意識に直接関わっていると提唱するのと同じような意味では、FEPは意識の理論ではない。Agentの生成モデルと推測が持つ変分自由エネルギーVFEを最小化すると意識が生まれるというわけではないから。よってFEPの枠組みに付加して意識に必要なものは何か、という議論をすることになる。

そこでわたしは先日のKフォーラムでのトークのときに「意識の介入理論」ということを提唱した。つまり脳が世界との交互作用において生成モデルを作りあげ、維持してゆくのに際して、「観察」と「介入」のうち介入こそがagentを自分ごととして世界にgroundさせるためには必須である。意識を持つためには世界への介入によってあらかじめ生成モデルを作りあげておくことが必須であり(Timbergenの発達、系統発生)、意識はこのようにしてできた生成モデルと推測との照合という過程(Timbergenの至近メカニズム)で生まれる。 世界への介入がなくても生成モデルは作りうるが、これは意識に上らない。このようにして意識の有無を判別する理論となりうる。

例えば、コンピューター上のVariational autoencoderはたとえ生成モデルを持っていたとしても意識を持たない。世界に介入することで生成モデルを作り上げたわけではないから。

「意識の介入理論」はIIT批判にもなっている。IITでいうニューロン間の因果推論とは「観察」による推論であり、granger causalityみたいな意味での因果推論なので、「介入」が入ってない。Granger causalityみたいな意味での因果推論はサブパーソナルなレベルで埋め込み可能だが、「介入」が必須となるような因果推論はパーソナルなレベルでしか作りこめない。このような介入が可能となる単位がagentであり、意識を持つ範囲、単位を決定づけるだろう。

「意識の介入理論」を完成させようとすると「そうであったかもしれない可能性を含んだ確率分布を持つこと」を含めて考える必要がある。FEPが想定するような生成モデルを持つということ自体が「そうでなかったかもしれない」をもつことであり、「行為的連関のモード」と「反省的思考のモード」とを分ける契機(そのものではないかも)となるだろう。たとえばカエルの視蓋の活動は生成モデルではないし、「行為的連関のモード」のままだろう。

これはenactive理論、sensorimotor contingency理論の計算論的言い換えになっている。これは「意識には反実仮想が必要」という考えと根っこは同じなのだけど、よりenactiveな側面に重きを置いているという点で異なり、これまで私が書いてきたことの延長上にあると言える。

「意識の介入理論」を計算論的に実現するとなると、第一近似としては、FEPの枠組み自体は参考にしつつもJudea Pearlの理論的枠組みを組み込んだようなものになるのではないか。ここで使える道具を探すために、さいきんは情報と因果推論の関係についていろいろ読んでいる。そのへんについてはまたいつかの機会に書きたい。


今回のもうひとつの話題はそれよりはもうちょっと基礎的なところで、因果性の哲学について勉強してるよって話。いま書いたような目的意識から、ヒュームとかデイヴィド・ルイスとかよりももっと新しい時代で、Judea Pearlの理論的枠組みを踏まえた上で因果性について考えている人はだれかと調べてみたら、どうやらそれはJames Woodwardであるらしい。Stanford Encyclopedia of Philosophy "Causation and Manipulability"によればWoodwardは因果性の操作性理論を提唱している。

主著であるWoodward (2003) Making Things Happen: a Theory of Causal Explanationを読んでみようと思うけれど、とりあえずこの書評を読んでみたら、これじたいが因果性の哲学についていいかんじに整理されていたので、ここでまとめを作っておきたい。

(1) ヒュームのregularity theory では、たとえば「キーを押す(H)と音が鳴る(S)」の例で言えば、HとSの二つのイベントが続くだけにすぎない。

(2) D LewisのCounterfactual theoryでは、HでなければSでないだろうという反実仮想を前提としている。

(3) von Wrightのagency theoryでは「キーを押す(H)」というagencyが必要になる。

そして(4) WoodwardのManipulability theoryでは、Hへの介入によってSが変わるという「論理的」可能性をベイズ的確率ネットワークで明らかにすることで因果の関係を特定できる。これはagencyを仮定せずに因果を定義できる。「論理的」可能性と言っているのは、天体の操作のような物理的に不可能なものも含むから。

臨床実験での介入の発想でいえば、介入するところ以外の値を固定する操作が精緻になる(*)とか、タイプとしての因果とトークンとしての因果を別に分けて扱えるとか、いろいろメリットがある。

(* たとえば「ジュリアス・シーザーが現在に生きていたなら戦争でどちらを使った?核兵器?カタパルト?」という言明は無意味な反実仮想であり、何を操作しているのかの観点から反実仮想を精緻化することができる。この例はここのLecture 29-32からとってきた。とてもわかりやすくてよかった。今回の記事のアンチョコ。)

Woodwardの操作理論では、介入の概念を使うことによってagencyという擬人主義を排除するのがミソらしい。哲学側の問題として、因果を他のものに還元することができるか(ヒューム的に「因果など実在しない」と言うか)、それとも還元不可能、つまり因果の実在論をとるか、という問題があるが、Woodwardは実在論を取る。

因果をagencyには還元できない、と議論することは哲学的には大事なのかもしれないけど、進化、発達の段階でどう因果推論が出来たかを想像してみれば、agencyがあり、目的論を持つ生き物こそが因果推論を持つだろうと思う。はじめに書いた「意識の介入理論」が正しいのなら、因果推論とagencyと目的論は同じ根っこから同時に生まれるんではないかと想像する。あくまで直感に訴えているだけだけど。

このあたりについては発達やっている人と議論してみたい。発達の段階で赤ちゃんが因果推論とagencyを作り上げていくときに「観察」と「介入」はどちらが本質的な寄与をしているだろうか。両方大事なのは当然として、どのように両者が時間的に組み上がっていくだろうか。

とまあいろいろ書きたいことはあるのだけど、ちょっとずつ先に進めているところ。

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