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駒場講義2017の準備のつづき。「回帰する擬似問題」

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昨日の記事駒場講義の準備のつづき。 つか講義当日まで毎日更新してゆく予定。

毎回講義の導入部は意識を科学的に研究するってどういうことか、 ってところから始めるのだけど、 「ハードプロブレム」に言及する割に尻すぼみなので そこに一旦オチをつける必要があると思っていた。

そこで「回帰する擬似問題」について言及しようと 「脳がわかれば心がわかるか」(山本貴光, 吉川浩満 (著)を買ってきた。

「回帰する擬似問題」の議論には続きがあって、 持続としての意識経験と同一性に基づいた科学 というギャップの問題に言及しているのだけど、 これって以前ブログに書いた Per Bakの「お話としての説明と科学としての説明」 と同じ構造だってことに気がついた。

いや、「理不尽な進化」のときに言及した気がするけど(注)、 これで講義をまとめる方向性が見えてきた!

砂山は崩れる。物理的に、確率的に。 それをお話として「いくつかの悪い偶然が重なって 予想外に大きい雪崩が起きた」と捉えたうえで、 「どうしてそれが今だったのか」 と問うときに答えられない問題(「どうしてそれが今だったのか」)が現れる。 それはかけがいのない、来歴に基づいた、一回性の世界。

ハードプロブレムを 解けた、と言ったらそれはトンデモ、 解ける、と言ったらそれは問題の難しさをわかってない、 解けない、と言ったらそれは科学を固定的に見ている、 だから、解けるか解けないかは、我々の「科学的な理解方法」と 一度限りの人生を生きるための「お話としての人生理解」 との間に折り合いをつける方法を将来作れるかどうかによるし、 折り合いがついたとき、たぶん我々は今言うような人間でなくなっている。 (「人間」の終焉、もしくはシンギュラリティー以降)

「脳がわかれば心がわかるか」の議論に乗っかれば、 一回性の人生をお話として了解する際に意識の難問が現れるのであって、 そこには解決はなく解消しかない。 そのためには人間にとっての因果や自由意志といった時代精神を書き換える必要がある。 するとシンギュラリティーってのはトラルファマドール星人 になることと言って過言ではない。(<-過言)

という方向に行くとトンデモになってしまうので、 一回性を扱うためには「同一性に基づいた科学」という概念自体を拡張する必要があって、 ヴァレラの神経現象学の要素である力学系と現象学はそのためにある、 みたいな話なら無理ないか。

そのうえで、不充分ながらも意識経験の変容の例を紹介し、 FEPについても批判的な立場から、それでもembodiedであること (<-それ自体が来歴に基づいた同一性からの拡張)の重要性を訴えかける… ってここまで書いて、気分盛り上がってきたが、どうやっても盛り込むのは無理なので、 とりあえずブログにまとめて、気分盛り上げるのに使うことにする。

(注) 2015年09月21日 に言及していた部分は以下のところだった。

「理不尽な進化」は最終章まで来た。 なるほど「回帰する擬似問題」とか「心脳問題」のときと同じ構造を持っている。 進化論が歴史と適応の組み合わせであり、これは意識での一回性の問題と同じなのだな。 そして袋小路の成り方もよく似ている。 機能主義者の無意識的な形而上学的コミットメント問題とか。

ほかにも「「お話としての説明」と「科学としての説明」という対比」 の話と繋げて考えてみたりとか、いろんなとっかかりがあって、 頭のなかで重要なところに杭を打つことができたような気がする。 これを起点にもっと進めてゆくことにしよう。

あと、フリストン自由エネルギーとも関わる「最適化」の問題。 歴史の影響から逃れ得ないがゆえの「奇妙な生物」と「messyな解決法」。 期待に依存しない「アルゴリズム的解決」と物理に拘束された「embodiedな解決」。 IITや自由エナジーをこちらから鍛えることができないだろうか?

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