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■ 駒場講義2018「意識の神経科学と自由エネルギー原理」無事終了

駒場でのオムニバス講義「意識の神経科学と自由エネルギー原理」ですが、無事終了しました。講義スライド(画像及び未発表資料の削除をしたもの)をslideshareにアップロードしました。併せて生理研の講義資料ページもアップデートしております。

駒場学部講義2018 「意識の神経科学と自由エネルギー原理」講義スライド from Masatoshi Yoshida

ここ数年の講義ではだいたい前半に「視覚失認」「盲視」、後半に「自由エネルギー原理」「統合失調症」という構成で行ってきたのだけど、全体に詰め込み気味になって良くないなあと思っていたので、自由エネルギー原理部分の資料が充実してきたのを機に、今回は前半を「統合失調症」、後半を「自由エネルギー原理」と明確に分けて行いました。

執筆中のFEP入門の総説(後半でFEP意識論を展開)で議論が整理できたので、そのあたりは昨年12月の「感覚運動随伴性、予測符号化、そして自由エネルギー原理 」よりは明確になったと思う。あのときは反実仮想と介入がまだごっちゃだったけど、これも明確に分けた。

以下反省事項というか振り返ってのメモだけど、途中質問込みでだいたい狙ったとおりのことをしゃべることができた(part 1のinsulaとpresenceだけスキップ)。時間配分、内容の量的にはこのくらいでよいみたい。自分のライフワークである盲視の話をしないのって奇妙な感じだけど。

前半の統合失調症パートは「意識経験の変容」の部分に重点を置く構成だった。統合失調症のベイズ脳アプローチについてベイズの図を書いたただのお話、みたいなパートが長すぎたので、もっとFletcherとかあのあたりの実験報告のエビデンスを足したほうが説得力が出るだろう。

あと、視覚サリエンスについては深追いせずに通り抜けるつもりだったけどそのあたりの質問が何個かあったので、ちゃんと知覚サリエンスと動機サリエンスの違いを明確に分けて、それぞれサリエンシーマップの概念についての説明、動機サリエンスについては松本さんのDAニューロンによるサリエンスのコーディングについて言及するところまでやると収まりが良さそう。そうすると視覚サリエンスはNMDAとGABAで、動機サリエンスはDAなので、統合失調症のglutamate説、dopomine説、GABA説についても言及できる。このあたりは次回の宿題。

後半の自由エネルギー原理パートについても、國吉研オムニバス講義のときよりは「FEPと意識論」については散漫にならずにちゃんと論理の道筋を作ってしゃべることはできたと思う。ただし、Bogacz 2017を参考にして作成した予測符号化の説明はもっと簡略化できた。あそこで言うべきことは「推測と予測誤差は神経発火、生成モデルとaccuracyはシナプス重み」これに尽きるのに。あと、脳で予測符号化していることのエビデンスを足すことのほうが必要そう。このあたりは次回の宿題。


そのあとは池上さんと池上研の院生の方と夕食。毎年ここで話をするのが楽しみ。今回もいろいろな話が出たが収穫のひとつは「意識は次元縮約であるかどうか」という話題。FEPの基本構造は、VAEのような生成モデルを用いたニューラルネットとほぼ同じ。VAEでは入力画像Xに対してhidden varianble Zとして次元縮約をして、そこから生成モデルで入力画像Xを復元してやる。FEPでの感覚入力sはVAEの入力画像Xに、FEPでの外界の原因xはVAEでのhidden variable Zに対応する。ということは我々の意識経験は多様なようでいて、じつは次元縮約した原因xから生成された感覚入力sであるなら、次元は低いという結論になる。しかし我々の説では意識とは「復元した感覚入力」ではない。カメラのような古典的表象説ではないので。

そうではなくて我々の説では、イマココの志向的対象q(x)と非主題的な前提条件p(x,s)とそれらの相互浸透によってひとかたまりの意識経験となっている。Change blindnessの実験からもわかるように、われわれは視線を向けないと変化に気づくことはできないが、そのような視野の部分も視覚クオリアは欠けていない。たぶんここの部分は盲点のfilling-inの現象と同じように「視覚経験はあるつもりでいるし、見ようと思えばいつでも視線を向けることができる」というようなもので、イマココの推測と生成モデルから「こうなっているはず」で埋められている存在なのだろう。Flash-lagでのpostdictionと同じ。 そうしてみると、われわれの説はかならずしも「意識を次元縮約だと考える」説にコミットしていないし、「意識を次元縮約だと考える」説というのはWM的なアクセス意識の考えではないかと思う。「FEPと現象学に基づく意識論」ではそのように考えないし、それゆえに正しく現象的意識の理論になっているのではないだろうか、こんなふうに議論できるのではないかと考えた。

あと別の話題では、池上さんは空間に定位しないクオリア経験の重要さを強調してた。視覚と眼球運動から考える私には無い視点だが、考えてみれば盲視での「雰囲気で上か下かわかる」とはまさに空間に定位しない意識経験だ(空間の情報なのに!)。そういう意識経験がたくさん折り重なっているというのが正しいのかも。

あと別の話題では、池上さんの他者論では他者の予想不可能性を強調するのだけど、ToM的な社会性の研究ではいかに予測をするかを考える。すると池上さんが言おうとしている他者性とは、ToM的な予測をしつつも予測不可能な部分なのだろう。でも思うのだけど、この他者性においても、同時にその予測不可能性には開けている。どういう意味かと言うと、田口茂さんの本にあった、我々の視覚が予想に基づくものでありつつも予想を裏切られることは織り込み済みであるのと同じ意味で。今回の講義や総説ではそのような知覚の特性がベイズ的であると 言ってはみたけれども、ほんとうのところこの面はベイズでは取り扱えてないと思う。

まだいろいろあるのだけど、こんなところで。


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