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■ 「好きな音楽」はコミュニケーションツール。

「好きな音楽」はコミュニケーションツール。だから、相手がアメリカ人のときは「ニールヤングとかのクラシックロック」って言うし、年長者に対しては「井上陽水とか70年代フォーク」って言うし、ロック好きのヒトには「カンタベリー系」って言うし、ブログでは「シューゲイザー系」って書くし、別アカでギャルゲソングについて語ったりする。
でも本当に好きなのは、というとそういうものはないんであって、結果としてこれを聞いたという統計的事実だけが残る。そこからこの人はこういうのが好きなんだなという形でだけ捉えられるのだ。だから、iTunesの「聴いた回数」みたいな記録が私がこれまで聴いたものすべてについて残っていたら面白かったろうなって思う。
さてさて、これって「自分」って者のあり方一般にあてはまる。「キャラ」「個性」これらはコミュニケーションツールであって、他者にとりあえず使ってもらえるように、自由度を下げてある。「多様で複雑な自分」というものは親しくなってから、お互いにそれをやりとりすればよいのだ。
このとき生まれるのがI-You relationship。生きている人間として他者に対峙して、魂をやりとりするんだ。
では、その他大勢としてでなく、人間として出会うということにはいったい何が不可欠なのか。いや、脳科学の話だけではなくて、実生活での話なのだけれど。たとえば、ぼくのことを心配してくれている人を邪険にするとき。
さっきわたしは、複雑さが質を変えるような書き方をした。「量が質を変えることもある。」自由度を上げることじたいにはたしかに意味はある。複雑なものを単純化せずに扱うってのは人間関係で言うならば、たとえば「君ってこういう人だよね」みたいな決めつけをせずに付き合うってことだ。ここには量から質への転換がある。
I-Youは指し示すことが難しい。I-Itのcounterとしてしか存在しないのかもしれない。
ところでI-Itの代わりにUs-Themを持ってくれば、党派性の構造のできあがりだ。もちろん、社会科学はI-Itの科学なのであって、人文科学の中にしかI-Youは存在しえない。
「聴いてる音楽」の話にまでぐっと引き戻してみれば、たとえば、じゃあそういう音楽聴いている俺が音楽を作ったらどういうもの作るか、っていう切り口で考えてみる。
そこはごまかしのきかない世界だ。そしてはじめのうちはなんか真似っこしたものばかりが出てくる。この時点での俺は「ニセモン」でしかない。「自分」なんて存在しない。そこから他者に届くように魂を込める。論文だって、曲だって、小説だって、ありとあらゆる創作物で。
このブログだって、言葉が少数の誰かに伝わるようにと魂を込めて書いている。わかりやすいストーリーにして自由度を下げないように、錯綜したものを錯綜したままに書いている。この言葉が伝わったとき、私はあなたに向けて書いている。Web的なザッピングによる情報収集から私とのコミュニケーションに移行している。
なんかありきたりのところに着地した気がする。「ありきたりのところ」はわたしにとってまだ、逃れたい故郷のような、親密性を失った観念的な存在(I-It)でしかないのだろう。たぶんね。


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