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■ 宣言的記憶と手続き的記憶

宣言的記憶と手続き的記憶に関してSquireがなにを言っているかを原著に基づいてまとめたいのだけれど、手元にはとりあえず「記憶と脳」とannualn review of neuroscience '82しかないのでそのあたりから。


宣言的記憶は、意識的想起が可能な記憶であり、内容について述べることができる。学習によって獲得された事実やデータに関する記憶で、健忘症によって障害される。
手続き的記憶は、特定の事実やデータ、特定の時間に特定の場所で生じた出来事とは関係がなく、学習された技能や認知的操作の変容にあたる記憶で、健忘症でも障害されずに残る。
(「記憶と脳」p.154)

というわけで、基本的にはH.M.さんのような内側側頭葉の障害によって起こった健忘症amnesiaでできることとできないことというやり方で分けたという面が強いわけです。じっさいSquireのキャリアを見ると最初は記憶の薬理学的なところ(1968-, Nature '73)から始まって、健忘を前向性健忘と逆向性健忘とに分ける仕事(1974-, Neuropsychologia '78)があって、その次がこの宣言的記憶と手続き的記憶の区分を確立する仕事をする(1980-, Science '80)、という感じであるようですし。
H.M.さんが知覚―運動技能の修得と保持ができること自体はCorkin '68とかですでにわかっていたのだけれど、Cohen and Squire '80で鏡に映った左右逆さの文字を読む技能をH.M.さんが持っていることを示したわけです。これによってH.M.さんが保持している能力の"knowing how"(手続き記憶)と傷害されている"knowing that"(宣言的記憶)とが別々の記憶システムであることを確立したのがこのCohen and Squire '80であったということのようです。
さらにいくつか抜き書き。

健忘患者で傷害されている学習と記憶は、命題やイメージとして心に浮かぶ明確な情報に関係しているので、宣言的と呼ばれている。
健忘症患者でも障害を受けずに残っている学習と記憶は、獲得される情報が課題の手続きに関係するものであったり、すでに獲得している認知的操作を実行する手段の変化として現れたりするところから手続き的と呼ばれている。
宣言的記憶は、日常生活で記憶されるさまざまな事実や伝統的な記憶実験で用いられる各種の項目、データなどを含んでおり
手続き的記憶では、知識の内容への明確なアクセスなしに記憶システム(または複数の記憶システム)が作動することによって、特定の技能の進歩やプライミング効果が出現している。手続き的記憶は学習成績の上昇によってのみ表現され、健忘症患者が記憶内容を言語によって記述したり、既知判断課題の成績として非言語的に表現されることはない。
(「記憶と脳」p.160 順番入れ替えなどあり。強調は引用者による)

いちばんcriticalなところは命題的であるか否かと意識によってアクセスされるかどうかの点でしょう。

ほとんどの知識が、宣言的、手続き的双方の形を取って表象されうることを示している。
……
「あなたの家には窓がいくつありますか」という質問に対してどのような答えがあるだろうか?
一つには、答えがすでに記憶されており、この宣言的知識表象の貯蔵庫から情報を直接引き出して答えることができる。
自分の家を思い出して一部屋一部屋窓を数えていくという手続きを用いても、同じ答えを出すことができる。
しかし宣言的知識と手続き的知識とを区別することが有効かつ妥当なものであるのかどうかは、こうした議論によって演繹的な方法のみで決定することはできない。
……
宣言的記憶は意識にアクセスできる点に特徴があるとされ、
また手続き的記憶は別個の脳の機構を通じて獲得される、と見られている。
二種類の記憶は、相互に交替し得ない別個の表象を反映するとされているのである。
(「記憶と脳」p.162-163)

前半はGoodaleのvision for perceptionとvision for actionみたいで面白いんだけれど、それは否定したいらしい。
ここでは記憶されるもののコンテント自体が違うことを強調しているけれども、実際の区分には使われている脳の部位が違うということを大いに援用しています。

宣言的記憶は、より認知的で、早く強固に成立し、一思考学習にも適しており、情報を特定の時間と場所に生じた単一の事象として貯蔵する、と見られている。こうした種類の表象は、以前に体験したことがあるという親近感、気置換を生むことができる。その点に関しては、モダリティーの制限はなく、表象が形成されたときとは異なる情報処理システムを通じてでも、表象にアクセスすることができる。
手続き記憶は、より自動的でゆっくりと成立し、試行の反復によって少しずつ進歩する学習に適しており、記憶が形成されたときに関与した情報処理システム以外のモダリティーを通じてのアクセスは必ずしもつねに可能なわけではなく、記憶の有効性がモダリティー間の境界によって制約されている。
(「記憶と脳」p.165)

ここではモダリティーによる特異性の違いを強調しています。これも命題的なものとして表象されるか否かを反映したものであるといえるでしょう。
こうやって読んでいくと、Squireが宣言的記憶という概念に入れ込もうとしたものとTulvingのepisodic memoryがmental time travelであるという概念とは意識によるアクセス、という点からみればそんなにも違っていないようにも思えるし、命題的であるか、という点に関して考えればやはり外れてしまっているとも思えるし。
こうやって抜き書きしてみるのも良いもんです。なんか写経しているような落ち着いた気持ちになってきてたりして。
追記:Science '80でどんなこと書いてあるか。Cohen NJ, Squire LR. "Preserved learning and retention of pattern-analyzing skill in amnesia: dissociation of knowing how and knowing that." Science. 1980 Oct 10;210(4466):207-10.
鏡映文字を書いてもらう課題で患者N.A.さん(視床の背内側核に損傷。コルサコフ症候群に類似)が被験者。使用する単語には半分はセッションごとに別の単語を使用し、半分は同じ単語を使用する。セッションごとにユニークな単語を使っても練習効果があって、それは対照群と変わらない。一方で、同じ単語を使用したほうの結果では対照群ではfamiliarityの効果による促進効果があるのにN.A.さんではそれが見られない。対照群では同じ単語が使われていることに自発的に気付くけれども、N.A.さんは同じ単語が使われているということ自体に気付いていない。つまり再認記憶自体が失われていることも示されている。
論文のディスカッション部分では、学習されたのはその技能のencoding ruleまたは手続き(手続き記憶)であり、その結果得られた情報(宣言的記憶)ではないこと、つまり、健忘症で保持されているのは(これまで明らかにされてきたような)知覚運動技能だけではなくて、パターン解析の技能、あわせて「ルールおよび手続きによる操作」であり、このような手続き的、rule-basedな情報(knowing how: 手続き記憶)と宣言的、data-basedな情報(knowing that: 宣言的記憶)との区別が脳によって担われている(実際の表現は"such a distinction is honoured by the nervous system"で、このフレーズは要旨とディカッションの最後とで繰り返されています)、としています。
追記:Annu Rev Neurosci. '82でどんなこと書いてあるか。'82 Squire LR. "The neuropsychology of human memory." Annu Rev Neurosci. 1982;5:241-73.
基本的には「記憶と脳」で足りている感じだけど、宣言的記憶と手続き的記憶という対比について"knowing that"と"knowing how"(これはRyle 1949によるものだったらしい)が対応しているだけでなく、ベルクソンのpure memoryとhabit memoryやBrunerのmemory with recordとmemory without recordなどに対応している、というあたりが目を引いたくらいで。
あと、episodicとsemanticの分類についても言及があるけれど(有名の記憶の分類図はこの時点ではまだ出てきていない、あれは「記憶と脳」で出来たものらしい)扱いは小さいし、健忘症の患者さんはepisodicもsemanticも同じくらい障害されていて、片方だけということはありそうにない、と早くも主張しています。


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